エアレース用→爆撃機転用=最強!? イタリア機SM.79「スパルヴィエロ」の華麗なる戦果

遅れた実戦配備と地中海での奮闘

 SM.79爆撃機は、1936(昭和11)年に始まったスペイン市民戦争(スペイン内戦)に派遣され、第2次世界大戦ではバルカン半島や地中海、北アフリカなどの戦いで用いられました。すでに機体は旧式化していたものの、その頑丈で打たれ強い機体構造のおかげで、多くの戦果を挙げました。

 しかしイギリスやアメリカなど敵側の戦闘機の進化により、高速爆撃機としての性能が頭打ちになったため、1940(昭和15)年には頑丈な機体や操縦性の良さを活かして爆弾から魚雷に積み換えた雷撃機としての転用が計画されます。ところが、非力なエンジンでは、450mm魚雷を胴体下面に左右2本搭載すると、操縦に支障をきたす恐れがありました。そこで通常は1本だけの搭載となり、またエンジントルクの関係から胴体左側下に積まれました。

Large 210525 sm79 03

拡大画像

魚雷を1本搭載して雷撃機として使用されるSM.79型。1943年3月、第89爆撃航空群第228飛行隊所属のコッラディーニ少尉機(吉川和篤作画)。

 SM.79雷撃型は、やがて地中海における連合軍船団の大きな脅威となります。代表的な例としては、イギリス軍がマルタ島への補給で送り込んだ「ハープン」輸送船団(1941年6月)や「ペデスタル」輸送船団(同年8月)などの攻撃で、駆逐艦や輸送船など数多くの敵艦を撃沈または大破させています。

 こうした作戦では、イギリス重巡洋艦「ケント」(9750トン)や英軽巡洋艦「グラスゴー」(9100トン)を大破したブスカーリア大尉を筆頭に、多くの雷撃エースも排出します。その後、SM.79雷撃型は1942(昭和17)年夏にも多くの雷撃戦果を挙げ、制空権が失われるまでの一時的な期間でしたが、北アフリカでの連合軍(おもにイギリス)と枢軸軍(イタリア・ドイツ)の補給バランスを変えるほどだったといいます。

 SM.79「スパルヴィエロ」は、エアレース機としては花を咲かせることができなかったものの、その優秀性から数々の世界記録を打ち立て、最後は地中海の戦いで短い栄光を掴んだといえるのではないでしょうか。

【了】

【貴重】3発エンジンの雷撃屋 SM.79型のカラー写真

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「あなたの知らないイタリア軍」「日本の英国戦車写真集」など。

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。