「西武多摩湖線vs西武園線vs狭山線」景勝地で第2ラウンド、突然の結末は【鉄道ライバル戦記】

そして争いは突然の集結へ

 争いの激しさは、各路線の終着駅の駅名にも見て取れます。多摩湖鉄道が「村山貯水池駅」としたのに対抗し、西武鉄道は「村山貯水池前駅」に。さらに武蔵野鉄道は駅名を「村山貯水池際駅」に改称。多摩湖周辺に一字違いで3つの鉄道会社の終着駅がある状況となったのです。

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多摩湖線の多摩湖~武蔵大和間の貯水池付近を走行する新101系電車(乗りものニュース編集部撮影)。

 さらに、戦争が本土決戦を迎えるにあたり、国の重要拠点を隠すため、村山貯水池という駅名の改称を余儀なくされますが、この際も、(多摩湖鉄道を吸収合併した)武蔵野鉄道が「村山貯水池際駅」から「狭山公園前駅」に改称したのに対し、西武鉄道は「村山貯水池前駅」から「狭山公園駅」に改称と、やはり互いに一字違いとなっています。

 このライバル争いに終止符が打たれたのは1945(昭和20)年9月22日。宿敵であった西武鉄道と武蔵野鉄道は合併し、「西武農業鉄道」が誕生したのです。「農業」という名前は、し尿を肥料として再利用する国の施策の一環で、鉄道でし尿を運搬していた頃の名残です。翌年には「西武鉄道」と改称し、現在に至ります。

 ライバル会社が合併に至った経緯は、他の例に漏れず、1930年代後半以降に進められた国の合理化政策を背景として行われたものです。もし時代のアヤで半ば強制的な合併が行われなければ、もしかすると新宿線と池袋線、そして多摩湖線・狭山線と西武園線は競合他社のままであったかもしれません。

 ちなみに(旧)西武鉄道が敷いた東村山~村山貯水池前間は合併後1948(昭和23)年に運行再開しますが、その後西武園の整備とともに、途中で北へ分岐する新ルートが建設されます。こちらが現在の西武園線で、約9ヶ月後に戦前からの旧ルートはほどなく廃止されます。つまり、1年足らずですが、多摩湖の周辺には「4つもの西武の支線」があったのです。

【了】

【地図で見る各路線の生い立ち】

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コメント

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2件のコメント

  1. 西武は、国際興業、東急、小田急、東武、イーグルバス、JRなど色々会社の歴史に関わるので、社史を見ると面白いですね。

  2. 武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道を買収した経緯ですが、(旧)西武鉄道の大株主は東武の根津嘉一郎で、東上線も含めて東京の北西部の地域の鉄道の支配を目論んでいたが、武蔵野鉄道の堤康次郎がこれを阻止すべく、後に衆議院議長になる政治力を駆使して交渉し、買収した。のでは?いわゆる戦時統合とは異なると思います。