旅客便「コードシェア」ってナニ? コロナ禍で再注目「航空業界の革命児」になった過去

「コードシェア」の元祖となった運航方式とは?

 共同運航便は利用者にとってはメリットばかりではありません。乗り入れターミナルやチェックインカウンターの場所に迷う、国内航空会社ならではのサービスを受けられないなどの憂き目に遭遇することもあります。

 一方で、長い目で見ると、共同運航という形式が、航空会社の歴史上で重要な意義をもらたしたことも。日本国内における共同運航便の歴史のなかで、ある意味伝説ともいえるものがありました。

 それは1967(昭和42)年、旧ソ連のアエロフロートとJAL(日本航空)が運航開始したモスクワ~羽田線です。

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JALの羽田~モスクワ線開設当時の様子(画像:JAL)。

 この初便の使用機材は、日本の国内では珍しい二重反転プロペラを装着した四発ターボプロップ機のツポレフTu-114でした。なお、これはコードシェアの普及以前に主流であった共同運航の形態のひとつである「ジョイント・オペレーション」というもの。飛行機とパイロットはアエロフロート、そしてCA(客室乗務員)は2社のスタッフが半分ずつ乗務し運航されていたそうです。そして、このユニークな機には、JALのトレードマーク「鶴丸」があしらわれました。

 この路線は、日本と欧州をつなぐ路線で、はじめて「シベリア・ルート」が使われたことで知られています。これはその名のとおり、シベリアの上空を飛行するルートですが、この路線の開設までは、旧ソ連の領空の制限によりここを飛ぶことができなかったのです。東西冷戦下の日ソ共同運航ということで、これが解禁され、欧州まで距離も時間も最短で飛ぶことができた、という意味では、まさにこの共同運航の開始は戦後航空史における「鉄のカーテン」をやぶるような、革命的な出来事だったと言えるでしょう。

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コメント

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2件のコメント

  1. 先日ベラルーシのミンスクに着陸させられたライアンエアー機はルフトハンザとのコードシェア便でしたよね…