独仏因縁の食堂車! オリエント急行で知られるワゴン・リ社の「2419号車」が見た歴史
独仏因縁の象徴2419号車の「その後」
その後2419号車はベルリンに運ばれ、対仏戦勝記念としてしばらく展示された後、ベルリン市内アンハルター駅の車庫に保管されたようです。戦局が悪化して空襲に晒されるようになると、ドイツ中部テューリンゲン州の大規模トンネル施設に疎開されます。
戦局が悪化してくると、再び2419号車がドイツの屈辱の舞台にならないよう、ヒトラーは親衛隊に、最後は破壊するように命じていたといわれます。果たして1945(昭和20)年4月にアメリカ軍が迫ると、2419号車は親衛隊によって破壊され疎開先の地に埋められたとされています。しかし1944(昭和19)年4月に空襲で破壊されたとの説もあり、経緯ははっきりしていません。戦後テューリンゲン州は東ドイツとなり、東西ドイツ統一後の1992(平成4)年、2419号車に取り付けられていたワゴン・リ社の紋章などを付近の住民が保管していたことが分かり、残骸の一部も見つかっていますので、この地に有ったことは確かなようです。
1950(昭和25)年、ワゴン・リ社は2419号車のレプリカを製作します。1918(大正7)年当時の姿で再びコンピエーニュの記念館に運び込まれ、第1次世界大戦休戦協定が調印された同じ11月11日に同記念館の開館式が行われました。
ドイツ、フランスの両国は2021年現在、共同で次世代戦車や戦闘機を開発しようという仲ですが、これまでの長い歴史においては、平和と戦争とを繰り返してきました。レプリカとはいえその姿を残す2419号車は、独仏両国間の複雑な歴史のシンボルになっているようです。現在、車両が置かれた記念館から隣接する広場へと線路も延びています。ただしその線路は、かつて1918年と1940年に2419号車が置かれ、歴史の舞台となった場所へは繋がっていません。
これは当事者たる両国民にとって、どのような意味を持つのでしょうか。第三者としては、再々度この食堂車が国際政治の本線へ引きずり出されることがないよう、祈るばかりです。
【了】
Writer: 月刊PANZER編集部
1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
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