真珠湾で米戦艦を沈めた“新兵器” でも実は間に合わせ? 意外なモノの転用で大戦果
世界最高の性能を極めた国産艦攻の誕生
航空技術が急速な進歩を示していた1920年代末から1930年代中頃にかけて、旧日本海軍は、水平爆撃と魚雷攻撃(雷撃)を行う九六式艦上攻撃機の後継機を求め、その開発を中島飛行機と三菱重工業に要請します。
こうして両社で競作という形で始まった新型機開発は、甲乙つけがたい優秀機を双方の会社が生み出します。両者とも機体は全金属製、主翼は低翼単葉の折畳式でしたが、最も大きな違いといえるのが主脚の構造にありました。
中島製の機体は引込脚で、一方の三菱製は固定脚でしたが、両者とも一長一短あったため、ともに採用されることとなり、1937(昭和12)年に中島案が「九七式一号艦上攻撃機」、三菱案が「九七式二号艦上攻撃機」として採用されました。なお、後に前者は九七式艦上攻撃機一一型、後者は九七式艦上攻撃機六一型へと改称されています。
ちなみに九七式艦攻は、両者採用という形でしたが、実質的には中島製の九七式一号がメインで、三菱製の九七式二号は補助という形でした。そのため、前者が約1250機生産されたのに対して、後者は150機ほどであり、生産数では約8倍もの開きがありました。
こうして生まれた中島製の九七式一号艦上攻撃機は、操縦性、兵装搭載量、航続距離、飛行速度のすべてにおいて当時の世界トップクラスの性能を誇っていました。これに練成を重ねた優秀な乗員が搭乗することで、パールハーバー攻撃時点において、旧日本海軍には世界最高の艦攻が揃っていたといっても過言ではない状況だったのです。
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