世界最大の戦艦「大和」竣工-1941.12.16 海軍の「虎の子」を特攻に送り出すまで

世界最大とうたわれる旧日本海軍の戦艦「大和」が1941年の今日、竣工しました。兵装もさることながら、艦の設備も当時最新鋭。しかし実戦で大きな戦果をあげられないまま、最後は沖縄への「特攻」に投入され、東シナ海に没しました。

「大和」建造に至るまで

 太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日は、旧日本海軍の戦艦「大和」が竣工した日です。「大和」は同型艦「武蔵」とともに、世界最大の戦艦としても知られます。

「大和」建造の大きなきっかけとなったのは、1922(大正11)年2月に結ばれた世界初の軍縮条約「ワシントン海軍軍縮条約」でした。アメリカやイギリスと比べて保有する軍艦の数が制限された日本は、新たな戦艦の建造をしばらく控えていたものの、いずれアメリカと衝突するであろうことを想定していました。

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1941年10月30日、宿毛湾沖で全力公試中の戦艦「大和」(画像:アメリカ海軍)。

 手元には、当時最新鋭だった戦艦「長門」「陸奥」を除き、攻撃力・速力とも一段低い旧式戦艦しかありませんでした。1930年代に入ると、新型戦艦の建造に向けた研究が加速。1937(昭和12)年11月、ついに次世代を担う新型戦艦、のちの大和型が広島県の呉海軍工廠で起工したのです。

 建造にあたっては極秘態勢が敷かれました。工廠の周囲には目隠しが設けられたほか、そこを見下ろせる丘の上にまで憲兵が配置され、常に目を光らせていました。

 アメリカとの関係が徐々に悪化していくなか、工期を半年前倒しして「大和」は完成。基準排水量6万4000トン、全長263.4m、最大速力27.46ノット(約50km/h)、そして目玉の主砲も世界最大となる46cm砲を9門装備しました。

 ほかにも、日本の戦艦としては初めて、艦橋にエレベーターが設置されたほか、艦内は冷暖房完備でした。また、巨大な測距儀の装備、速力向上に寄与するバルバス・バウ(球状艦首)の採用など、まさに新型戦艦の名にふさわしい内容でした。

「大和」は竣工翌年の1942(昭和17)年2月、連合艦隊旗艦となりました。戦闘の最前線に出ることはないまま、翌年の1943(昭和18)年には、旗艦を大和型2番艦の「武蔵」に譲ります。

【ギャラリー】各地で撮影された「大和」の姿

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コメント

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1件のコメント

  1. 東郷平八郎指揮の日本海海戦。日本は航洋型潜水艦による索敵、酸素魚雷。空母による急降下爆撃と優秀な艦上攻撃機を手に入れた。海上を本土に向けて攻めて来る敵艦隊を、長い槍の潜水艦と空母で漸減し、最後は長距離射程の戦艦で撃滅。日本海海戦よもう一度って海軍の夢。
    したがって、空母は一回の総攻撃に使用する想定だったし、潜水艦は戦艦や駆逐艦相手を想定。
    短期決戦能力しか無かった。
    ところが実際は、真珠湾を奇襲。航空機が漸減に消耗するどころか主要兵器になってしまった。
    空母を護衛する為の、戦艦用兵。相手の補給路を断つための、潜水艦使用。艦上機のパイロット補充システム。全て戦前の想定と違ってしまった。
    当然巨砲の戦艦は空母を守る為に使うしかなくなるが、空母が全滅、その前に搭乗員補充システムが無いのだから槍と盾をうしなっては戦艦を使う術が無い。当然の結末。
    初戦でハワイを叩いたのなら、その後徹底的にハワイへの補給路を叩くべきだった。そこに大和を投入していれば、戦艦同士の想定した戦い方もできたのかも知れない。