「首都防空戦」解明につながる? 木更津沖で見つかったB-29の残骸 撃墜したのは誰か
意外と多かった首都圏でのB-29撃墜
それではこの巨大なB-29爆撃機を撃墜したのは何者なのでしょうか。
当時の日本軍の防空体制は非力で、B-29爆撃機には手も足も出なかったといわれることもありますが、実際はそうでもなかったようです。
たとえば、1945(昭和20)年5月23日深夜、空襲で東京に飛来した558機のB-29は、日本軍機の迎撃や高射砲の射撃で17機を失い69機が損傷を被りました。また2日後の5月25日深夜に再び東京を襲った498機は、26機を失い100機が損傷しています。
この首都東京の防空戦には、旧日本陸軍は飛行第47戦隊の四式戦闘機「疾風」を含む第10飛行師団が、旧日本海軍については厚木基地の第三〇二海軍航空隊や横浜海軍航空隊から夜間双発戦闘機「月光」や急降下爆撃機「彗星」改造の夜間戦闘機型、単発エンジン戦闘機である「雷電」や「零戦」が迎撃に上がっています。
また九九式八糎(センチ)高射砲は最大射高1万400mでしたが、サーチライトと組み合わせた対空射撃はある程度有効で、加えて少数ながら配備された三式十二糎(センチ)高射砲は最大射高1万4000mという性能を有していたことから、高高度を飛行するB-29にも十分通用するものでした。
なお、1945(昭和20)年5月29日に横浜空襲で飛来した517機に対して、木更津の太田山に配置された高射砲がB-29を1機撃墜しています。その機体は木更津と君津の間の山中に墜落しましたが、今回の主脚がその時に東京湾に落ちた機体の一部であった可能性も考えられるでしょう。
いずれにせよ、この遺物の素性は今回の調査で見つかった銘板を基にしないことには何ともいえません。東京文化財研究所からの新たな情報待ちですが、すでにB-29爆撃機の主脚とタイヤは那須の戦争博物館に移送されており、慰霊式典や春頃の公開に向けて準備中だそうです。新たな展示物は、同館の目玉となることを期待します。
【了】
※一部修正しました(2月18日10時10分)。
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
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