実は「アンカレッジ経由」より古い! 欧州線「南回りルート」なぜ廃れた? ロシア忌避で再注目
なぜ北回りが主流になったのか?
冷戦下の日本~ヨーロッパ線の飛行ルートが、南回りから北回りに移行されたのは、当時の情勢が大きく関係しています。
南回りルートでは、いわゆる中東地域の上空を通過します。1960年代は、インド・パキスタンの対立による印パ戦争やイスラエル・エジプトなどが対立した中東戦争をはじめ、この地域は情勢が非常に不安定でした。実際に旅客機が攻撃されたり、ハイジャックが起こったりもしていました。
ただ、日本の航空会社は、戦後一歩遅れて国際線に参入してきたこともあり、JAL(日本航空)が1961(昭和36)年にまず「北回り」欧州線を開設、その後に南回り欧州線も就航させ、しばらく併存します。一因としては、日本からヨーロッパに直行する搭乗客はもちろんのこと、アジアと旧宗主国を行き来する旅客の需要もあったためでしょう。
日本初の「南回り」路線は、日本からヨーロッパの最終目的地まで、途中各駅停車のように各経由地へ着陸し、乗客の入れ替え、乗務員の交替、燃料の補給などを実施しました。国際航空便において「北回り」が“特急列車”であれば、「南回り」は“ローカル列車”のようなもので、運賃も「北回り」と比べて低く抑えられていました。
筆者も「北回り」でヨーロッパに行ったことがありますが、「南回り」は安いものの、到着までの時間がのべ24時間近くかかると聞いていたので避けてしまった記憶があります。ただ、その運賃だけではなく、いくつかアジアの都市を経由するため、それぞれの地の雰囲気を感じることを好む猛者がいたとか。今考えると筆者も、昔の南回りルートを経験しておけばよかったと後悔しています。
【了】
※一部修正しました(3月7日20時00分)。
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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