北の最果ての巨大構造物は「駅」だった 樺太行き鉄道連絡船の22年と「運命の10日間」
日本最北の駅、稚内。かつては「その先」がありました。樺太を結んでいた鉄道連絡船「稚泊連絡船」の発着場所まで線路が通じていたのです。わずか22年で幕を閉じた稚泊連絡船の歴史を振り返ります。
樺太割譲から18年後に確立した本州~北海道~樺太のルート
日本最北の駅「稚内駅」から北へ歩くこと数分の位置にある「稚内港北防波堤ドーム」は、かつて稚内と樺太を結んでいた鉄道連絡船「稚泊連絡船」(稚泊航路)の発着場所です。かつては稚内駅からここまで線路が延び、列車が乗り入れていました。わずか22年で幕を閉じた稚泊連絡船の歴史は、樺太割譲から終戦時にかけての「厳しい気候との闘いの歴史」でもありました。
1905(明治38)年9月5日、日露戦争終結に伴う日露講和条約調印により、樺太の南半分が日本の領土として割譲されることになります。これにより、北海道と樺太を結ぶ航路が必要となったことから、同年8月から民間事業者による小樽~大泊(現在のロシアサハリン州コルサコフ)間航路が開設されます。ところが、航海距離が約420kmと長く、夏は濃霧、冬は流氷や時化という自然条件の厳しさが悩みの種になっていました。
一方で、この頃の鉄道はまだ名寄までしか開通しておらず、稚内までの鉄道開業が迫るにつれ、樺太庁長官や樺太の住民などから稚内~樺太間の航路開設を要望する声が政府へと届くようになっていきます。
1922(大正11)年11月1日、宗谷線(このときは後の天北線ルート)が稚内(現・南稚内)まで開業。これを受けて、当時の鉄道省は稚内~大泊間航路の開設を決定します。そして、関釜航路で活躍していた「対馬丸I」を砕氷船に改造し、稚泊航路へ転籍させることにしたのです。
記念すべき第1船は、1923(大正12)年5月1日の大泊発稚内行き。同じく関釜航路から青函航路へ転籍した「壱岐丸I」が運航を受け持ちました。当時の稚泊航路の所要時間は8時間でしたが、冬季は運航時刻や所要時間が異なっていました、さらに、この航路に接続するかたちで函館桟橋~稚内間を22時間59分で結ぶ急行列車も設定。本州から青函連絡船を介して樺太まで列車と船をつないで連絡するルートが確立されました。
1926(大正15)年9月25日には天塩線(現在の宗谷本線)の全通により運行経路を変更が変更され、夏季は函館桟橋~稚内間を20時間45分で、冬期は21時間37分で結んでいました。その後は船の増備も進み、1932(昭和7)年12月、2隻の新造砕氷船が揃ったことにより、航路の定時運航が通年確保できるようになっています。
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