北の最果ての巨大構造物は「駅」だった 樺太行き鉄道連絡船の22年と「運命の10日間」
防波堤ドーム完成 乗換が格段に便利に
この間、鉄道は1928(昭和3)年12月に宗谷線の稚内(現・南稚内)~稚内港(現・稚内)間が開業します。この区間の開業により、約3kmの道のりを歩いて稚内桟橋へ移動する手間が必要なくなり、列車と連絡船の乗り継ぎが便利になりました。
しかしながら、船の乗り降りには、まだいくつかの苦労が伴っていたのも事実。というのも、当時の稚内港は防波堤がなく、船を係留するための岸壁も未整備であったため、稚泊航路の船舶は港の沖合に停泊していました。そのため、実際の乗船では、小型汽船を使って乗り継ぐ方法がとられていたのです。
1931(昭和6)年には船が接岸できる岸壁が完成しますが、陸上の設備が未整備であったことから、小型汽船を使って乗り継ぐ方法は継続。特に利用客を悩ませたのは、港を襲う強い風と高い波。時には波が高さ5.5mの防波堤を越えてしまうこともあったといいます。
その不便を解消する防波堤の上屋が、1936(昭和11)年に完成します。これが現在の稚内港北防波堤ドームですが、設計を担当したのは、北海道大学を卒業して3年目に道庁の技師として稚内築港事務所へ赴任してきた当時26歳の土谷 実氏。彼は、学生時代に学んだ世界の建造物やコンクリート建築の知識などを活用し、約2か月で新たな防波堤を設計します。
5年の工期をかけて完成した上屋は、「屋蓋防波堤」と呼ばれていました。古代ローマのコロセウムを思わせる半アーチ状の外観が特徴で、高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の数は70本あります。
そして、1938(昭和13)年12月11日には同施設の前面に「稚内桟橋駅」が開業。港湾施設も完成したことから、鉄道と船の乗り換えは、桟橋から連絡船へ直接乗下船できるようになり、利便性が向上しました。
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