北の最果ての巨大構造物は「駅」だった 樺太行き鉄道連絡船の22年と「運命の10日間」
「逃げろ」避難民を運んだ運命の10日間
稚泊航路は人々の往来を活発にさせ、異郷の豊かな資源が本土に運び込まれ、北海道に繁栄をもたらしました。ところが、太平洋戦争開戦で状況は一変します。
それまで貨物・旅客輸送が大半であったものが、次第に軍事輸送が優先となり、時刻改正のたびに優等列車の削減が行われるようになります。航路自体は1日1往復確保されていたものの、1942(昭和17)年になると、オホーツク海方面にアメリカの潜水艦が出没するようになり、さらに機雷の流入などで安全な航行が確保できなくなっていきます。
1945(昭和20)年8月9日、当時のソ連軍が樺太への侵攻を開始。その4日後の8月13日、樺太から本土への緊急引き揚げ作戦が開始されます。あらゆる船舶が駆り出され、稚内に残っていた連絡船「宗谷丸」(1932年12月竣工)もこの引き揚げ作戦に駆り出されます。
8月23日まで3回にわたり避難民を稚内へと輸送。「宗谷丸」が大泊に最後の入港を果たした時は、避難民の列が3km先まで続いたといいます。大泊発の最終船には、定員800人に対して4700人が乗船しますが、それでも乗れなかった人がいたそうです。国鉄青函船舶鉄道管理局が発行した「稚泊連絡船史」(1974年)にも、当時の引き上げの様子が事細かく書かれており、多くの人が命がけで樺太を脱出しようとしていたことが伺い知れます。
こうして、8月23日の22時に大泊を就航した船は、8月24日の4時頃に稚内港へ到着。これを最後に、のべ284万人もの乗客が行き来した日本最北の鉄道連絡船は、わずか22年の歴史に幕を閉じたのでありました。
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現在、稚内港北防波堤ドームを少し進むと、「稚泊航路記念碑」があります。1970(昭和45)年11月に建立されたもので、北海道北部と樺太が象られた記念碑に吊されている小さな鐘は、この航路に就航していた「宗谷丸」の号鐘を模造したものです。そして、その横には、稚泊連絡船の接続列車や急行「利尻」などをけん引したSL「C55 49号機」の動輪が置かれています。
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Writer: 須田浩司
自称「高速バスアドバイザー」。運行管理者資格所有。高速バス乗車1100回以上。 紙原稿・ネット原稿・同人誌・ブログなどを通じてバス・鉄道を中心とした 「乗りもの旅」の素晴らしさを伝える活動を行う。北海道在住。
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