山手線に“第二”構想があった! 幻の鉄道、そのルートやダイヤを探る
不動産、電力… 様々な事業を画策したものの…
『事業と広告』(1928年9月号)では、さらにこう書かれています。
「不景気の深刻化を裏切って、(山手急行の株式募集は)たちまちに驚くべき応募超過を示し(中略)現在の帝都にとって必要欠くべからざる施設」「社運の好望を今から予断しうる」
株への応募も当初は順調だったようです。記事内容を要約すれば、山手急行は東京が誇る鉄道路線網の一部となり多くの乗客が見込まれるので、同社の株を買っておけば、多額の配当や値上がりが期待できる、というものでした。
同社は鉄道事業に付帯して、不動産事業の計画も練っていました。そのひとつが、塹壕を掘って出た土を下町の低湿地の埋立てに使い、そこを住宅地にして売り出すことなどでした。同様の例としては、京成電気軌道(現・京成電鉄)が千住大橋駅の西側に分譲地として売り出した千住緑町があります。これは1933(昭和8)年に開通した日暮里~京成上野間の地下トンネル掘削で出た土を使い、隅田川沿いの低湿地を整地して土地付き住宅として売り出したものです。分譲売り出しは翌1934(昭和9)年なので、山手急行の方が早くに計画していたことになります。
このほか、路線開通により土地の値段が上がったら、塹壕の線路にふたをしてその上の土地を売り出すことや、沿線への電力供給事業なども計画していました。
このように期待の持てる鉄道路線でしたが、買収する土地の予想以上の値上がり、昭和恐慌をはじめとする景気減退、東京市の行政区域拡大に伴う規制の厳格化、日中戦争など、逆風に次々に見舞われ、計画は頓挫してしまいます。
次回以降の記事で、現在も見られる路線の痕跡、路線の特徴などをさらに見ていきたいと思います。
【了】
Writer: 内田宗治(フリーライター)
フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。
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