三式戦闘機「飛燕」は「“ぴえん”な機体」だったのか 実は革新的だった設計 その紆余曲折
運用開始後の「飛燕」、どんなの評価?
デビュー後の三式戦闘機「飛燕」は、ラバウルの陸軍基地に配備されたものの、その性能を充分に発揮できませんでした。というのも、斬新かつ複雑なエンジンの整備に困難性があったためと記録されています。その後、フィリピン方面にも配備されましたが、機体の運用にこなれてきたこともあってか、特に日本機がこれまで不得意とされていた急降下飛行も対応できる機体として、敵国であるアメリカでは評価されました。
ただ、このあと「飛燕」は「ぴえん」な局面を迎えてしまいます。キモとなる液冷エンジンの製造に遅れが生じてしまったのです。そのため工場には、エンジンを取り付けられずに機体のみ完成した、首無しの「飛燕」が並ぶ事態にまで陥ってしまったとか。
そこで陸軍からの指示で、「飛燕」に他の戦闘機で一般的な空冷エンジンを搭載した機体「キ100」を急遽開発することとなり、これが旧日本陸軍の五式戦闘機につながります。
この空冷エンジンバージョンの「飛燕」は1945年2月にデビュー、整備性が上がり稼働率が向上しただけでなく、馬力が大きく軽量化もされた新型エンジンだったことから、初期タイプの「飛燕」にも劣らないスペックがあったそうです。しかし、すでに第二次世界大戦末期の日本国内の混乱した状況から、性能を発揮できる背景が無く、戦果としては期待ほどのものではなかったとの話もあります。
このように「飛燕」は、複雑な性質をもつ液冷エンジンの性能を充分に発揮したとは言い難いまま、その役目を終えてしまいました。一方で、欧州ではメッサーシュミット「Bf109」が第二次世界大戦下で3万機以上が作られたほか、アメリカでは第二次世界大戦最優秀機ともいわれるP-38「ライトニング」、レシプロ・エンジン搭載の最高傑作とよばれる戦闘機P-51「マスタング」など、液冷エンジン機が存在感を放っています。
つまり、「ぴえん機とはなってしまったけど、それは革新的だったからであり、そして、その着想は確かなものだった」――三式戦闘機「飛燕」は、そう評することができる機体なのかもしれません。なお、日本機らしからぬ出で立ちと、緑色の斑点迷彩から、オールドファンには人気がある戦闘機と筆者は認識しています。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
以前に読んだ元搭乗員やテストパイロットの対談(丸スペシャルの飛燕特集号)によれば「(整備状態が良ければ)高度一万mで編隊が組める唯一の機体だった。」との事でした。まぁ当時の日本には技術的にも戦術的にも厳しい機体だったんでしょうね。
速度や上昇力は連合軍側の機体に勝るわけではなく、格闘戦能力に欠けるので連合軍側からは楽な機体と認識されてたのがぴえんな所以では…
日本では低い低いといわれる上昇力ですが
米軍機にはP-40やF4Fなどもっと下がいます。
米海軍からは鹵獲された一型(記載されている武装から一型乙と思われる)
がカタログスペックから大きく下の性能しか出さなかったためにFM-2に対し
速度と加速、ズーム上昇で上回り、ロール性能は低速で同等、高速でわずかに劣る
旋回性能は同等かわずかに劣り上昇力は劣る、FM-2によく似た性能の機体とされています
米陸軍パイロットによればP-40Nと同等の機体とのことですから
開戦時に就役していた機種の後期型と同等かやや上くらいというところでしょうか
二速全開の高度も低く、三式とつく時期の機体としては寂しい性能ですね
DB601自体もオリジナルから高度馬力があまり良くないエンジンですので
正直、隼2型や二号零戦の方がはるかに強いんじゃないかと思ってます。