世界唯一の保存機「九七式戦闘機」があえて無塗装なワケ 甦る“東洋一の飛行場”の記憶
旧陸軍機の主力も担った九七戦
九七式戦闘機(型式名キ27)は、中島飛行機(現在のSUBARU)が開発した旧日本陸軍向けのひとり乗り戦闘機で、1936(昭和11)年10月に初飛行しました。2枚プロペラや固定脚ではあるものの、旧陸軍初の主翼が1枚構造である低翼単葉や、視界の良い水滴型風防(乙型以降)を備えた近代的な設計の機体で、「九七戦」または「九七式戦」の略称で呼ばれました。
最高速度も、第2次世界大戦前に生まれた戦闘機としては快速の470km/hで、運動性能も良く、世界的に見ても遜色ない性能を持つ国産機だったといえるでしょう。しかし航続距離は620km程度であったため、それを少しでも延ばすべく、陸軍戦闘機として初めて主翼左右下にコブの様に膨らんだ形状の使い捨て落下タンクを装備しています。なお、武装も機首の7.7mm機関銃2挺だけだったため、打撃力が不足しているとして後々問題になりました。
それでも日中戦争やノモンハン事件、太平洋戦争の初期では陸軍航空隊の主力戦闘機として戦果を挙げており、満州国(現在の中国東北部)やタイ王国にも輸出されています。このように重用された結果、生産数は3386機と多く、これは歴代の日本戦闘機でも「零戦」「隼」「疾風」に次ぐ第4位の数になります。
こうして陸軍航空隊で多用された九七戦ですが、太平洋戦争中盤以降は旧式化したため、第一線部隊では「隼」や「鐘馗」「疾風」などの新型機に更新され、後方での運用に移行していきました。
しかし戦争後期になると航空機不足から再び第一線に引っ張り出され、一部の機体は特別攻撃隊に駆り出されるようになります。ところが250kg爆弾を搭載するには馬力不足で、飛行中は常にエンジン出力を最大に保つ必要があったため、出撃してもエンジン内部の焼き付けを起こして故障や帰投する機体が多かったといわれています。
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