世界唯一の保存機「九七式戦闘機」があえて無塗装なワケ 甦る“東洋一の飛行場”の記憶
東洋一の飛行場であった大刀洗
いまでこそ静かな田舎町といった趣のある大刀洗ですが、ここにはかつて東洋一と呼ばれた飛行場がありました。開設されたのは1919(大正8)年、42万5000坪(その後115万2000坪まで拡張)の土地に、長さ500m、幅200mの滑走路2本を擁する国内最大の陸軍航空隊の拠点として運用され、前出したように九七式戦闘機も配備されていました。
その広さと重要性から、その後、大刀洗陸軍飛行学校や航空機製作所も設置されますが、ゆえにアメリカ軍の爆撃目標にもなり、1945(昭和20)年3月の空襲では児童を含めた民間人にも犠牲者が出るほど甚大な被害を被っています。
そういった地だからこそ、九七戦が展示されたといえるでしょう。この博多湾から引き揚げられた九七戦を操縦していたのは、機内で発見された箸箱などから鳥取県出身の渡辺利廣(わたなべ としひろ)少尉であると判明しています。同機は戦争末期の1945(昭和20)年に旧満州から熊本県の菊池基地(菊池市)へ向かう途中で、エンジン故障が発生して博多湾に不時着水しました。渡辺少尉は漁船に救出されましたが、4月の沖縄への特攻出撃で別の九七戦と共に還らぬ人となっています。
実は、この機体の本来の操縦者は佐藤享(さとう とおる)少年飛行兵でしたが、渡辺少尉の機体が修理中であったため、佐藤機を代わりに使用して日本まで飛んできたのです。なお、佐藤飛行兵も特攻に出撃していますが、不時着して九死に一生を得ています。生き残って終戦を迎えた佐藤氏は、かつての愛機との邂逅を喜んだとのことで、亡くなるまでの10年ほどの間に何度も大刀洗平和記念館に通ったそうです。
大刀洗基地は終戦後、民間に払い下げられて農地や工業用地に転用されたことで、いまでは飛行場の面影はほとんど見られなくなっています。しかし、平和記念館の周囲には基地の門柱跡や慰霊碑、掩体壕などがいまでも点在しています。
こうした数々のエピソードを有する貴重な九七式戦闘機や戦争遺構を見学することで、当時の大刀洗が置かれた状況や、太平洋戦争そのものに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
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