零戦じゃない…? 岐阜の博物館にある謎のレプリカ機 『風立ちぬ』の技師が生んだ幻の世界水準機だった
墜落を乗り越えたことで傑作機へと昇華
このような新型戦闘機の高い要求性能を達成すべく、三菱重工業の堀越技師と29名の技術者たちは徹底した軽量化でクリアしようとします。たとえば主翼の主桁には、より軽くて強度のある新素材「超々ジュラルミン(ESD)」を多用しました。また空力的に優れている沈頭鋲も、九六式艦戦に続いて用いられ、それまでに培われた日本の航空技術を結集させることで開発に当たります。
こうして生まれた試作機は、1939(昭和14)年4月1日、愛知県の大江工場(名古屋市港区)から出荷されます。行き先は初飛行を実施するための各務原飛行場。ただ、直線距離で約40kmある道のりを運ぶために用意されたのは牛車でした。
結果、せっかく完成した十二試艦戦は、牛車に載せるために分解されて各務原まで運ばれ、彼の地で再度組み立てられ、初飛行へと挑みました。ただ、堀越技師らの優れた設計の甲斐あって、十二試艦戦は海軍から要求された目標値を達成するとともに、高い操縦性も併せて実現することに成功します。
性能的には当時の世界水準に達し、充分すぎるものでした。しかし、そこから零戦として量産化に至るまでの道のりは、決して順調とはいかなかったのです。
1940(昭和15)年3月11日、十二試艦戦の試作2号機が急降下試験中に空中分解を起こして墜落、操縦していた奥山飛行士が死亡する事故が発生します。これは水平尾翼の昇降舵下面に取り付けられていたバランス用の重り「マスバランス」が脱落して、昇降舵がバタバタと振動(フラッター)を起こしたことが原因でした。
そこでマスバランスの取付け強度を上げることで、十二試艦戦は飛行機としての高い安定性を手に入れます。こうした教訓は量産機である零戦一一型にも活かされ、水平尾翼の位置も含めた胴体後部の設計の見直しにも繋がりました。
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