謎のまま消滅 東京の「環6地下鉄」計画とは? “交通貧弱地帯”池袋~渋谷に群がった鉄道新線構想
南北の鉄道構想に「環7モノレール」も!?
この頃、東京都市圏が拡大し続けたことで、千代田区・中央区・港区からなる都心への一極集中が問題化していました。そこで東京都は1958(昭和33)年、戦前から郊外電車のターミナルとして栄え、都心と郊外の結節点だった新宿、渋谷、池袋の3地区を「副都心」に定め、都市機能の分散を図ります。
しかし、副都心3地区を育成する上でネックとなるのが交通問題でした。都心側では山手線、京浜東北線、地下鉄銀座線、浅草線、日比谷線など数多くの路線が縦断しているのに対し、当時の副都心側では山手線が南北の移動を一手に担っており、激しい混雑が問題になっていたのです。
それを補完するため、新宿付近には当時、平行する山手線貨物線の旅客化(現在の埼京線)、地下鉄12号線(現在の大江戸線)、明治通りへの地下鉄13号線(現在の副都心線)および国鉄の通勤新線「東北・東海道開発線」など複数の路線計画・構想があり、飽和状態のような様相でした。
ですが都心並みの鉄道網を構築する前提であれば、複数の並行路線を整備しても多すぎるということはありません。既成市街地と郊外の境界線上にあたり、かつ「3副都心の外側」を結ぶ環6への地下鉄計画は、「新たな東京像」への模索だったのでしょう。
さらに、環6に整備が検討されていたのは地下鉄だけではありませんでした。東京都が1969(昭和44)年に設置した「モノレールに関する調査研究会」では、鉄道網を補完する環状モノレールの整備を調査しており、その中で西半分は環6・環7・環8のいずれに設置するかルートの比較検討を行っていました。
ところがこれら構想は答申翌年のオイルショックで高度成長が終焉。国や自治体の財政が悪化し、公共投資が削減されたことから、大規模な新線建設計画は歴史の表舞台から儚く消えていきました。
結局、山手線に併行する路線は1986(昭和61)年から2002(平成14)年にかけて開業したJR埼京線(湘南新宿ライン)、完全な新線としては2008(平成20)年開業の副都心線まで待たねばなりませんでした。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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