海上自衛隊唯一の「零戦」保存機に込められた"想い” 2機の残骸からの復元機 かつての特攻基地に
“ニコイチ”で復元された鹿屋の目玉
こうして「零戦」としては完成の域に達したといえる性能を誇った五二型でしたが、生産が始まった1943(昭和18)年8月には艦載機としての空母での運用はすでに狭まっており、もっぱら陸上基地を拠点とする防空戦闘機としての役割を担うことの方が多い状況でした。
さらに1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦以降は、胴体下に爆弾を搭載した特攻機としても使用され、鹿屋の地からも数多くの零戦五二型を含めた神風特別攻撃隊が出撃して、908名のパイロットが還らぬ人となっています。
では、そのような鹿屋の地に零戦が展示されるようになったのはいつなのでしょうか。そもそも海上自衛隊の鹿屋航空基地史料館が開設されたのは、半世紀前の1973(昭和48)年12月のことです。その後、大規模な改修を経て1993(平成5)年7月にリニューアルオープンした際に、史料館の目玉のひとつとして展示が始まったのが、この零戦五二型でした。
ただ同機は、元々は別々の場所から見つかった五二型2機を、ともに補う形で1つの機体として復元したものです。見つかった場所は錦江湾と吹上浜の海底で、両機とも終戦から50年近くも海水に浸かった状態であったことから、双方の引き揚げ当時の写真を見るとかなり痛んだ残骸のような状態になっていたことがわかります。そこから現在のような立派な姿にまで復元されたのですから、その作業には多くの海上自衛隊員による多大な尽力があったことは想像に難くありません。
こうした関係者の熱意により、鹿屋航空基地史料館の展示物となった零戦五二型であるため、日本の技術遺産としてだけでなく、戦争の悲惨さを後世に伝える“証人”としても貴重な存在といえるでしょう。
なお、今年(2023年)は鹿屋航空基地史料館が開設されてからちょうど50年、零戦五二型の展示が始まったリニューアルオープンから数えてもちょうど30年の節目の年です。改めて、屋外の二式飛行艇含め、南国の鹿屋へ見学に行ってみるのも良いのではないでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
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