ルーツは貨客船 空母「隼鷹」進水-1941.6.26 実は日本空母初の試みが?

本土で迎えた終戦

 翌1943(昭和18)年、「隼鷹」は南方と本土を往復し、主に物資輸送任務に従事しました。その間には、壮絶な戦いが繰り広げられたガダルカナル島の撤収作戦にも参加。しかし11月には、日本近海にてアメリカ軍の潜水艦による雷撃を受け損傷、広島県の呉軍港へ帰投しています。

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「隼鷹」の後部飛行甲板とエレベーター(画像:アメリカ海軍)。

 1944(昭和18)年6月に修理を終えると、「隼鷹」はマリアナ沖海戦に参加します。島しょ部へ侵攻するアメリカ軍を、日本側が迎撃するというものでした。

 20日、アメリカ軍の艦上爆撃機による空襲を受け、「隼鷹」は火災に見舞われます。何とか沈没は免れ、4日後に山口県岩国市沖にある柱島泊地に帰り着きましたが、一連の海戦では日本は空母3隻などのほか航空機も400機以上を喪失し、中部太平洋における制海権・制空権も失いました。

 さらに同年10月、旧日本海軍は史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦でも敗北、これにより日本の空母機動部隊は事実上、壊滅してしまいます。その結果、「隼鷹」にはもはや搭載する航空機などなくなり、以降はほぼ“輸送艦”としての任務しか残っていませんでした。12月、「隼鷹」は台湾から本土へ向けて航行中、アメリカ軍潜水艦の攻撃を受け被雷。満身創痍で長崎港へ帰投しました。

「隼鷹」は修理を受けますが、燃料や物資も欠乏しており、もはや空母の出番はありません。そのまま終戦を迎えます。その後も復員兵の輸送任務に従事することはなく、1947(昭和22)年に解体されました。

【了】

【写真】“日本空母初の試み”を甲板から見上げる

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