"第二&第三の山手線"に7本の放射路線 戦前の東京"理想の鉄道網"構想とは 実際どれくらいできた?

実際に免許が下りたはいいが

 それまで鉄道省は国有鉄道の併行路線を原則認めませんでしたが、都市部の利用者が急増する中、旅客の利便向上につながるならば積極的に認める方針に転じ、100件もの軌道・鉄道の出願から条件に合致する路線を選出しました。

 1927(昭和2)年4月20日付朝日新聞は、前日に行われた鉄道省議で東京大宮電気鉄道、目黒玉川電気鉄道、西武鉄道延長線、東京山手急行電気鉄道への免許方針を決定したと報じており、4月から6月にかけて以下のとおり免許が下りています。

・1927年4月 東京山手急行電気鉄道 大井町~駒込~洲崎間(環状1号線)
・同月 (旧)西武鉄道 新宿~立川間(放射3号線)
・同月 目黒玉川電気鉄道 目黒~玉川間(放射1号線)
・同年6月 東京大宮電気鉄道 西巣鴨~大宮間(放射5号線)

 実は4月20日は第1次若槻禮次郎内閣(憲政会)の最後の日であり、同日から田中義一内閣(立憲政友会)が成立します。つまり4路線への免許は政権交代前の"駆け込み決裁"だったわけです。

 この裏には鉄道省内の方針の対立があったようです。同年7月発行の『交通と電気』には、東京山手急行電気鉄道の出願について、計画中の環状道路(現在の「環七」)が完成しバスの運行が予想される中、無理に山手線に近接した並行路線を建設しても経営的に成り立たないという根強い反対が省内にあったと伝えています。

 しかし当時の次官が反対を振り切って無理やり決裁に持ち込んだようで、そうなると「認定方針」も鉄道省の公式な見解ではなかった可能性があります。

 田中内閣の鉄道大臣小川平吉は免許を乱発し、のちに疑獄事件に発展したことで知られますが、こと東京については「認定方針」の影響も少なからずあったように思えます。小川在任中に免許された路線は以下の通りです。

・1928年1月 城西電気鉄道 渋谷~吉祥寺間(放射2号線)
・同年2月 金町電気鉄道 金町~荻窪~鶴見間(環状2号線)
・同年6月 北武電気鉄道 日暮里~野田間(放射7号線)
・1929年6月 東京西北電気鉄道 池袋~新座間(放射4号線)

 しかし折しも昭和金融恐慌、昭和恐慌が直撃し、日本経済は長期低迷の時代に突入。元々、技術的、資金的裏付けに欠けた計画が多かったこともあり、東京山手急行電鉄と合併して小田急傘下の帝都電鉄となった城西電気鉄道がかろうじて現在の「京王井の頭線」を実現させただけで、他の計画は歴史の中に消えていきました。

 戦後、都市交通審議会は既設線中間地域への地下鉄延伸を答申しましたが、私鉄各社が減収を懸念したことから実現せず、結果的に私鉄の路線図はほぼ昭和初期のまま現在に至っています。

【了】

【画像】えっ…!これが昭和初期の東京「2環状7放射線」新線計画です

テーマ特集「【記事まとめ】昔の鉄道風景は驚きだらけ!? あの路線の意外な歴史、幻に消えた鉄道計画も…知るほど奥深い「鉄道考古学」の世界」へ

Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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コメント

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1件のコメント

  1. 画像1/2のコメントが変です。
    それと7号線の終点は花ではなく花畑ではないでしょうか。