ポルシェが作った「世界一重い戦車」とは 技術詰め込んだのに「実戦投入ゼロ」で終わったワケ

実際に作ってみると問題が多発!

 もっとも、戦後の主力戦車は60t程度とかなり重くなり、橋を渡れたとしても、橋の損傷を気にする必要性が出てきました。しかし3倍の重量があるマウスは既にその次元ではありません。橋自体が落ちるか、ひしゃげてしまうほどでした。

 そこでポルシェ博士は、車体を水密構造とし、動力にエンジンと発電機、電動モーターを組み合わせたハイブリット方式を採用。対岸に置いた発電機とケーブルで接続し、外部からの電力供給でモーターを駆動させて「マウス」を潜水渡河させ、その後は渡河した「マウス」も動力として、続々と後続に電力を供給する計画をたてます。

 これがどこまで上手くいったかは定かではありません。しかし、ポルシェ博士こそ、1902年に世界で初めて実用的なハイブリッド車を開発したその人であり、決して突飛な思い付きで考えた計画ではないことがうかがえます。

 こうした実現可能か不可解か不明な部分を残しつつも、ヒトラーのお墨付きを得た同戦車は150両分の生産準備が進められました。しかし、1943年7月以降の戦局悪化により計画は中止され、結局2両の試作車両が作られたのみとなりました。

 さらに、作られた試作車も、カタログスペック通りの性能を発揮することはありませんでした。最大速度、登坂能力等の機動性能は計画予定値を下回っており、燃費の悪さも想定以上。さらに、機械的不調も続発したといわれ、1944年11月に正式な開発計画の中止命令が下されます。結局、独裁者の思い付きと、ポルシェ博士の技術者としての意地で進められた同戦車の開発は無駄な資源と時間を浪費しただけで終わります。

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試験走行中の「マウス」(画像:帝国戦争博物館)。

 なお、試作車はクーマンスドルフの倉庫でほこりをかぶっていましたが、1945年4月末にソ連軍が同地に迫ると、迎撃のため修理され出撃します。ただ、エンジントラブルで走行不能に陥り、試作1号車はクンマースドルフ試験場の西地区でほぼ無傷で放置された状態で鹵獲されました。2号車はツォッセン郊外にて爆破処分されましたが、その巨体ゆえか形は残り、砲塔が車体から外れた状態で赤軍に鹵獲。現在でも、この2両をニコイチ修理した車両がロシアのクビンカ戦車博物館で展示されています。

【了】

【え…、日本も研究したことがある!?】旧陸軍で考案された超重戦車とは(写真)

Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)

ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。

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