孤立集落へ救援物資を「空中投下」実際やっていた自衛隊 なぜやらなくなった? それは60年前の話
奄美での成功後も山梨や長野で実施
「空襲思わす惨状」「市街地3分の2が灰」などと新聞に大きく書かれる事態に、各所から救援の手が差し伸べられました。まず九州から、海上保安庁の巡視船「いき」、海上自衛隊の警備艦「はるかぜ」および「ぶな」、駆潜艇「たか」が救援物資を積んで急行。近くにいたアメリカ海軍の大型空母「ヨークタウン」もヘリコプターで薬品と衣類を投下するなどしました。
遠く離れた東京でも、日本赤十字社やキリスト教団体から提供された約7tにおよぶ救援物資の空輸を自衛隊が引き受けます。救援物資は、まず23区内の陸上自衛隊練馬駐屯地に運び込まれ、第1空挺団員の手で空中投下できるよう梱包し直したうえで、輸送機の待つアメリカ空軍立川基地(現在の陸上自衛隊立川駐屯地)へ移送されました。
そして12月29日朝、毛布や衣類、ミルクや小麦粉をぎっしり積んだ航空自衛隊のC-46輸送機4機が立川を離陸。途中、宮崎県にある航空自衛隊新田原基地で空中投下に備え、後部ドアを外してから奄美大島に飛来しています。
物量投下は、奄美大島北部にあった和野飛行場の上空で実施され、無事に成功します。この時、島民らは日の丸の旗をふって歓迎したといわれます。
C-46輸送機は、翌年の1959(昭和34)年8月にも台風被害にあった山梨県と長野県でも救援物資の空中投下に使われるなど、1977(昭和52)年の引退まで幾度も災害派遣に活躍しました。
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