日本の鉄道「運転は一流、ただ…」外国人記者ズバリ指摘 インバウンド対応100年の試行錯誤 いつの時代も“国主導”
「運転の正確な点は一流。ただ惜しむらくは…」外国人記者が指摘
第一次世界大戦が終結すると国際交流は再び活発化します。1918(大正7)年頃の外客数は年間7000~8000人と今から見れば微々たる数字でしたが、ジャパン・ツーリスト・ビューローをもう一段発展させようという声が政府内外から上がります。
そこで広範囲にわたり「国策としての外客誘致事業」を推進すべく、1930(昭和5)年に鉄道省の外局として設立されたのが「国際観光局」です。ちなみに「観光」という言葉はこれを契機に一般化したそうです。1933(昭和8)年の外客数は2.6万人、1935(昭和10)年は4.2万人と順調に増えていきました。
国際観光局が力を入れたのが、1940(昭和15)年に開催予定だった東京オリンピックでした。1938(昭和13)年に国際観光局が発行した『外客は斯く望む』は観光に関する国内外の新聞報道をまとめていますが、鉄道に触れたものも少なくありません。
例えばあるドイツ人記者は「列車の運転の正確な点については、日本は確かに世界において一流の地位にあります。ただ惜しむらくは列車中がまだ相当に不潔なことです」と指摘。ジャパンタイムズも「乗客を危険にさらす古い木造車が依然使用されて」いると記しています。「世界標準」にはまだほど遠かったのが現実です。
その後の日本は戦争の時代を迎えます。日中戦争の勃発を受けてオリンピックは1938(昭和13)年に返上が決定。国際社会で孤立を深めたことで英米からの旅行者は激減しますが、太平洋戦争開戦までは「わが国民精神の真髄を海外に宣揚する」ため、外客の誘致が引き続き進められました。
こうして見てきたように、島国日本の外国人旅行者誘致は常に国策が付いて回りました。2000年代以降のインバウンド増加もまた、観光立国を目指した政府の「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の成果です。これが民間主導になった時、初めて日本の観光政策は次のステージを迎えると言えるのかもしれません。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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