80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【前編】攻撃されても「味方はスルー」の本意
第二次世界大戦末期の1944年8月、沖縄県出身者を多数乗せた民間船「対馬丸」が鹿児島県近海で沈没しました。同船が沈むまでの一部始終と、攻撃を加えた米潜水艦について前後編にわけて解説します。
沖縄県民の集団疎開はサイパン陥落がきっかけ
第二次世界大戦末期、アメリカを始めとした連合国軍の侵攻が予想された沖縄では、住民の集団疎開計画が進められました。1944年7月から1945年3月まで延べ187隻の疎開船が沖縄を出航し、約8万人が乗船しましたが、その中で大きな悲劇として知られているのが、今から80年前の1944年8月22日にアメリカ海軍の潜水艦によって撃沈された学童疎開船「対馬丸」です。
沖縄からの集団疎開計画が立案されるきっかけとなったのは、1944年7月初旬のサイパン島陥落でした。その前年、1943年に定めた「絶対国防圏」構想で一角とされていた同島が、アメリカ軍によって占領されたことで、その国防計画は早くもほころびを見せます。
また、サイパン島を拠点としてB-29大型爆撃機による日本本土空襲が可能となったことに日本政府は衝撃を受け、次の侵攻目標となるのは台湾、沖縄、奄美などの南西諸島と想定。7月7日に開かれた緊急閣議で同地域に居住する老人、女性、幼児を含む児童10万人を本土へ疎開させることを決定し、沖縄県知事に命令しました。
疎開命令を受けた沖縄県では、直ちに対象者の県外転出実施要項を作成し、7月19日には沖縄県学童疎開準備要項が発令されます。疎開には一部で海軍の艦船が充当される例もあったものの、多くは民間から軍が徴傭(ちょうよう)した船舶が用いられ、沖縄への往路では防衛戦に備えた兵力と武器、資機材を輸送し、復路で疎開者を運ぶ方式が採用されました。
疎開に際しては見知らぬ土地へ行くことに抵抗を覚える住民も多く、希望者が集まりにくい状況もあったことから、県の職員に対し率先して家族の疎開に応じるよう要請が出されたり、軍が隣組(住民どうしの互助会)や国民学校(現在の小学校)に対し疎開割当者を確保するよう命令したりということもあったようです。
コメント