80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【前編】攻撃されても「味方はスルー」の本意
30年選手だった対馬丸
対馬丸は、日本郵船のT型貨物船に分類される貨物船で、1915年2月22日にイギリスのラッセル造船所で竣工しました。1916年6月21日に開設されたニューヨーク線(東回り)の第一船として起用されるなど、日本郵船の主力として活躍しましたが、第二次世界大戦が始まると陸軍から数度にわたって徴傭され、輸送船としての任務に就いていました。
1944年8月に入ると、対馬丸は門司からモ05船団の一員として陸軍の船舶工兵部隊を乗せて沖縄本島に到着、嘉手納沖で部隊の揚陸に従事したのち、同じ船団にいた和浦丸(元三菱汽船の貨物船)、暁空丸(1941年に香港でイギリス軍事運輸省向けとして建造中のところ鹵獲された貨物船)とともに上海へ回航されました。ここで第62師団の兵員を乗せ、609船団として8月16日に出航、19日に那覇に到着しています。
8月21日、対馬丸は約1660名(直前で乗船を取りやめたり、別の船に移ることになったり、逆に当日になって急に乗船した人がいたりしたため正確な数は不明)の学童・一般疎開者を乗せ、和浦丸、暁空丸と護衛の駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」とともにナモ103船団を組んで九州へ向け那覇を出発しました。船団全体では疎開学童が約2300名、一般疎開者が約1400名と推計されています。
この当時、すでに南西諸島ではアメリカ軍の潜水艦が出没しており、沖縄から九州へ向かうルートでも民間の定期船や軍の輸送船が沈められていました。対馬丸らナモ103船団も例外ではなく、上海から沖縄に向かう時点でアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」に動きをキャッチされていたのです。
なお、「ボーフィン」はこれに先立つ1944年5月13日、僚艦「アスプロ」とともに海軍が徴傭した貨物船美山丸をパラオ沖で撃沈しています。
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