80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【前編】攻撃されても「味方はスルー」の本意
アメリカ潜水艦が待ち伏せ、そして…
アメリカ国立公文書館に保存されているボーフィンの第6次戦時哨戒報告書によると、8月22日の4時10分、沖縄県の最北端にある硫黄鳥島近海で「大きな船3隻と小さな船2隻(ナモ103船団)をレーダーで捕捉した」とあります。夜明けが近い(5時には明るくなり、6時4分に日の出を迎えると推測した)ため、夜になって攻撃することとし、それまでは付かず離れずの距離で船団の追跡に入りました。
日中は日本軍の哨戒機をやり過ごしつつ、夜を迎えたボーフィンは19時58分に浮上しました。地理的な条件および船団と自艦との位置関係から、攻撃可能時間は2時間後までと考えられたため、船団が奄美大島と屋久島のほぼ中間にあたるトカラ列島の平島と諏訪之瀬島のあいだに差し掛かる頃の21時30分に攻撃することとし、戦闘体制に入ります。
潜水艦の雷撃を避ける之字運動(ジグザグ航行)を始めた船団を捕捉しながら攻撃機会をうかがっていた「ボーフィン」は22時9分、4800ヤード(約4.4km)離れた船団に向け8秒間隔で艦首発射管より6本の魚雷を発射。続いて22時12分に艦尾発射管より3本の魚雷を発射しています。
ボーフィンの報告書では先行する2隻の大型船(対馬丸と和浦丸)に命中し、護衛する駆逐艦にも命中したとありますが、死亡した船長に代わって一等運転士の小関保氏が記した「対馬丸遭難概況顛末の件(報告)」には、回避行動を試みたものの左舷に3本、その後20秒ほど隔てて右舷に1本が命中(その他1本が船首前方を、1本が船尾後方を通過)したと残されています。
小関氏の報告書によれば「蓮」と「宇治」、これら2隻の護衛艦のうち1隻は対馬丸の被雷後に引き返し、対馬丸の後方を回った後に船団を追って去ったといいます。これは救護活動をすることで護衛がおろそかになり、残り2隻の疎開船も攻撃されて全滅する恐れがあったためと考えられます。
では、後編では船団から取り残され沈みゆく「対馬丸」と、生存者の動き、戦後の日米での扱いの差などについて記します。
【了】
Writer: 咲村珠樹(ライター・カメラマン)
ゲーム誌の編集を経て独立。航空宇宙、鉄道、ミリタリーを中心としつつ、近代建築、民俗学(宮崎民俗学会員)、アニメの分野でも活動する。2019年にシリーズが終了したレッドブル・エアレースでは公式ガイドブックを担当し、競技面をはじめ機体構造の考察など、造詣の深さにおいては日本屈指。
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