「どこから撃たれた!?」パリ市民がパニック! 100年前のドイツが造った“驚愕の戦略兵器”とは

やがて砲ではなくミサイルへと発展していく

 このような苦労を乗り越え射撃しても、レーダーや観測装置などが発達していない時代のため、130km先の着弾地点を確認することができませんでした。狙った地点に着弾したのか、どのくらいの損害を与えたのか。全くわからないまま、射撃は続けられ、その効果は翌日以降の新聞や、敵陣営に入り込んだスパイからの報告で確認していたそうです。
 
 このように問題を多く抱えたパリ砲でしたが、第一次世界大戦終盤の1918年3月に、パリから120kmの森に設置されて以降、計300発以上の砲弾が発射され、死傷者は700名以上、また多くの家屋が倒壊するという被害をパリに与えました。

 しかしそれ以降、このパリ砲が使用されたという報告は残されていません。終戦間際にドイツ軍の手によって破壊されたものと考えられています。砲座だけはアメリカ軍によって接収されたそうですが、それ以上は何も残されませんでした。

 また、大戦の終結に伴い、このような巨大火砲はしばらく造られることはなくなりました。ある意味では、後の戦略兵器のさきがけともいえますが、後の時代に登場する、爆弾を大量投下可能で、着弾観測も容易な大型爆撃機とは比較にもならない使い勝手の悪さでした。

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第二次世界大戦後にアメリカで試射されたV-2ロケットの後継「パンパーWAC」。ドイツ長距離攻撃兵器への野心的設計は、技術の進歩によって世界中で活用されるようになる(画像:NASA)。

 しかし、ある意味「ロマン兵器」とも言えるこの長距離射撃兵器への夢を、まだドイツは捨てていませんでした。30年後の第二次世界大戦では、巨大な列車砲「ドーラ」と「グスタフ」を生み出しただけではなく、その後の弾道ミサイルの発達に大きく貢献することになるV-2ロケットを開発することになるのです。

【了】

※一部修正しました(9月9日20時17分)。

【突然大きな爆破が…】パリ砲の弾が着弾した場所の様子です(写真)

Writer: 凪破真名(歴史ライター・編集)

なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。

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