幻の首都高「内環状線」その遺構を愛でよう 1960年代に計画も公害で頓挫
3月の品川線開通で全通した首都高中央環状線。実は1960年代、この中央環状線と都心環状線の中間に「内環状線」を造る計画が持ち上がりました。現代の首都高に、その計画を見ることができます。
予見していた東京都
2015年3月に品川線が開通し、ついに首都高中央環状線(C2)は全通。渋滞も大幅に緩和されましたが、実は首都高にはもうひとつ「内(ない)環状線」という計画がありました。これは、都心環状線と中央環状線の中間に位置するもので、構想が持ち上がったのは、まだ首都高が1メートルも開通していなかった1961(昭和36)年のことです。
もともと首都高は、純粋な都市内高速道路として生まれ、東京オリンピックまでに羽田空港と都心部、そして代々木のオリンピック選手村をつなげることが最優先でした。しかし将来の都市圏拡大や、東名や中央などの都市間高速との接続を考慮して、外郭環状道路(外環)とその内側のネットワークの充実が求められるであろう、ということから、「内環状線」の計画が浮上しています。
翌1962(昭和37)年に都市計画協会が作成した「東京都市高速道路将来計画」では、内環状は完全なリング状になっています。ルートは外濠と隅田川に沿ったもので、南側は都心環状線より内側に来ていました。が、1964(昭和39)年の計画では、4号線の赤坂見附付近から外濠および神田川に沿って7号線両国付近に着地する、北側のみの弓形に縮小されています。
内環状線は、いずれ都心環状線の北側(三宅坂~江戸橋間)の交通量が飽和するであろうという予測に基づき、そのバイパスとして位置づけられたものでした。確かに、内環状線があれば、都心部を東西に横切る通過交通を逃がすことができます。実際、昭和40年代半ばから、1993(平成5)年にレインボーブリッジ(11号台場線)が開通するまで、都心環状線は特にこの北側区間の渋滞が激しく、それが各放射線の上り線につながるという悪循環が常態化していました。
東京都(当時の首都高速道路公団の母体)は、首都高が開通する前からそれを予見。内環状線を計画していました。
コメント