どう見ても遠回りだけど… 東京‐千葉の国道が「へ」の字に曲がる“ごもっともな”ワケ 「徒歩」だからこそ重宝された「バイパス」

東京と千葉を結ぶ千葉街道は、「への字」を描くように不自然に北へと大きく遠回りしています。しかしこの不可解なルートのナゾをひも解くと、1000年以上昔まで遡ります。どうやら地形と関所が絡んでいるようです。

城東地区は見渡す限りの干潟だった

 8世紀末には、古代東海道が遠回りで不便との苦情が増え、ついに武蔵を古代東海道の管轄に鞍(くら)替えします。

 新ルートは相模を北上し、武蔵の国府(東京都府中市)で右折して東に進み、現在の隅田川・白鬚橋辺りに到達します。ここで渡し舟で川を越え、立石(たていし。葛飾区)~小岩~市川と、ほぼ直線で古代東海道は整備されます。

 ただ当時、隅田川以東の城東地区は、市川~船橋間の臨海部と同様に、広大なデルタ地帯でした。このため散在する小高い砂州を頼りに、いくつも小橋を架けて街道を造ったようです。これより南の地域は、もはや遠浅の海で街道は通せなかったため、否応にも北の方向に大きく迂回せざるを得なかったようです。

 ちなみに「センベロの街」として有名な立石ですが、古墳時代(3~6世紀)に有力豪族がこの地に築いた古墳から、平安時代に房州産の石材を拝借し、街道の道標として立てたのが由来のようです。

 17世紀に徳川幕府が成立し、五街道が整備され、北に向かう日光道中(街道)と奥州道中が設けられます。ただし幕府は江戸防備のため、隅田川に架ける橋はこの2街道が通る(千住)大橋だけとし、例外は認めませんでした。

【「へ」の理由】まっすぐな国道14号と道筋の変遷を見る(写真と地図)

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コメント

1件のコメント

  1. はるか昔に千葉街道が造られていますが、その経路は当時の海岸線に沿ったものだと言われています。

    そして旧中川の蛇行具合をみる限り、高低差の少ない土地であったこと、水はけに関しても良くいとは言えないことは想像に難くありません。

    大正〜昭和にかけ荒川放水路や中川放水路が造られ、周辺の治水も改善され、現代では宅地化が著しい地域ですが、元々は干拓事業によって造られた土地です。