どう見ても遠回りだけど… 東京‐千葉の国道が「へ」の字に曲がる“ごもっともな”ワケ 「徒歩」だからこそ重宝された「バイパス」
東京と千葉を結ぶ千葉街道は、「への字」を描くように不自然に北へと大きく遠回りしています。しかしこの不可解なルートのナゾをひも解くと、1000年以上昔まで遡ります。どうやら地形と関所が絡んでいるようです。
両国橋が架かり「への字ルート」が誕生
水戸徳川家の江戸へのアクセスや、房総の諸大名の参勤交代に使う「水戸佐倉道」も、立石~市川間の古代東海道を基に整備されます。
ただし上記の防備の理由から、隅田川の渡し船の利用は廃され、日光道中と合体しながらいったん北上して大橋を渡り、千住の宿場町で水戸佐倉道は枝分かれし、綾瀬(足立区)~新宿(にいじゅく。葛飾区)と東進します。この辺りで水戸街道と分岐し、「佐倉街道」と改名して小岩に到達し、その先は古代東海道の経路をたどります。
江戸川には「小岩・市川の渡し」が設置されますが、江戸防衛のためこの川も架橋を厳禁とし、この渡しにも関所が設けられるなど厳重でした。しかし江戸~房総間を結ぶ街道としてはあまりにも遠回りで、参勤交代する房総の諸大名や商人に不評でした。
江戸時代には隅田川以東のデルタ地帯は、開拓や埋め立てで急速に陸地化が進みます。さらに1657年の明暦の大火を機に、隅田川に2番目の橋、両国橋が架かります。
するとこれを合図に、江戸~千葉間をはるかに短く結ぶ“ショート・カット”の「元佐倉道」が造られます。両国橋から現在の京葉道路とほぼ同じルートで、亀戸(江東区)を経由して千葉街道に通じる道筋です。
農民や町人などは、便利な元佐倉道をこぞって使うようになります。また、参勤交代の際に旅費が大幅に節約できるとの理由から、やがて諸大名の参勤交代にも限定的ながら使用が許可され、主要街道として頭角を現し始めます。
陸地化したのだから、京葉道路のように千葉に向かって一直線に東進すればいいのでは、と思うかもしれません。
徳川幕府は江戸防御と治安維持のために関所を重要視し、江戸川に橋が架かるのは明治時代に入ってからでした。もちろん他に渡し船が数か所ありましたが、これらは全部地元農民専用で、他の人の利用を厳しく取り締まったようです。
こうしたことから、元佐倉道は亀戸辺りから、小岩・市川の関所目がけて、北東方面にまっしぐらに進んだ結果、実におかしな「への字型」の街道となってしまった、というのが真相のようです。
Writer: 深川孝行
1962年、東京生まれ。法政大学文学部地理学科卒業後、ビジネス雑誌などの各編集長を経てフリージャーナリストに。物流、電機・通信、防衛、旅行、ホテル、テーマパーク業界を得意とする。著書(共著含む)多数。日本大学で非常勤講師(国際法)の経験もある。
はるか昔に千葉街道が造られていますが、その経路は当時の海岸線に沿ったものだと言われています。
そして旧中川の蛇行具合をみる限り、高低差の少ない土地であったこと、水はけに関しても良くいとは言えないことは想像に難くありません。
大正〜昭和にかけ荒川放水路や中川放水路が造られ、周辺の治水も改善され、現代では宅地化が著しい地域ですが、元々は干拓事業によって造られた土地です。