「日本一運賃が高い」の噂も返上へ!? 南海「泉北線」誕生の大きな“意味” 長年のライバルに差をつける
南海電鉄と泉北高速鉄道が合併し、「南海泉北線」が誕生。一連の融合策の総仕上げとなります。南海は「日本一運賃が高いと言わんとってな」と自虐ネタで値下げをアピールし、ライバルの地下鉄に対抗します。
もともと南海も大阪市も難色示した「泉北ニュータウン新線」
泉北高速線の電車の多くは南海高野線に直通しますが、なぜ別会社で建設されたのでしょうか。その発端は1960年代、大阪府が泉北ニュータウン構想を打ち出す中、1965年1月に南海へニュータウン新線の建設を要請したことにさかのぼります。このとき南海は難色を示しました。

当時は南海本線の複々線化、難波駅の大改造、高野線複線化などに巨額の投資をしており、さらに新線建設に莫大な費用を投じる体力がありませんでした。ニュータウンの計画人口は18万人とされましたが、人口が定着するのに何十年かかるか。それまでは巨額の投資をしても利益は出ません。
もう1つ、大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)御堂筋線の堺市東部への延伸構想もありましたが、大阪市も色よい返事をしません。市営地下鉄ゆえに、市外への延伸に消極的でした。南海もライバルとなる地下鉄の延伸に反対していました。
そこで大阪府は1969年、大阪府都市開発株式会社の手で新線を敷設することを決めました。同社は東大阪市と茨木市でトラックターミナルを運営しており、大阪府が49%を出資する第三セクター会社でした。
こうして1971年に泉北高速線中百舌鳥~泉ケ丘間が開業し、1977年に光明池まで延伸します。大阪府都市開発こと泉北高速鉄道は施設と車両を保有しますが、当初、社員はわずかな事務員だけ。運転士や駅員、電気、土木のスタッフは業務委託を受けた南海の社員でした。
泉ケ丘駅、栂・美木多(とがみきた)駅、光明池駅の3駅がニュータウンの核となり、地区センターを中心としたまちづくりが行われました。
さて、泉北高速線の利用はどうだったのでしょうか。
「大阪府統計年鑑」によると、南海中百舌鳥駅の他会社線(泉北高速線)からの乗車人員は1972年で1.6万人/日でしたが、1975年に3.4万人、1980年には4.5万人にまで増えました。
泉北高速線の利用者の8割は南海線も利用しますが、初乗り運賃を2回払わねばならないぶん、他社線より割高となります。これが住民にとって長年の不満の種でした。
ちなみに、ニュータウン新線の建設・経営が事業者に重荷で延伸が困難なため、後に国と自治体から工事費の32.4%の補助が出るようになりました。これは泉北高速の苦境が新制度設立のきっかけとなったのです。
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