「東武アーバンパークライン」はすっかり定着? 今後も続く野田線の“劇的イメチェン” 東武はなぜ注力するのか

野田線(東武アーバンパークライン)は、東武本線(伊勢崎線・日光線など)、東上本線に次ぐ「東武第三の幹線」といえる路線ですが、東京に乗り入れず、新型車両も投入されず……と、いわば地味な存在でした。しかしここ最近、劇的にサービスが向上しています。野田線で何が起こっているのでしょうか。

当初の目的は「野田名物」の輸送だった

 東武鉄道には東武本線(伊勢崎線・日光線など)、東上本線という2つの本線がありますが、それに次ぐ存在が野田線(東武アーバンパークライン)です。この路線は、ほかの本線とは出自や性格の面でも異彩を放つ存在でしたが、ここ10年ほどで大きく変貌しています。東武はなぜ野田線に注力しているのでしょうか。

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2025年3月デビューの新型80000系電車は、野田線で運用されている(画像:PIXTA)

 伊勢崎線浅草~伊勢崎間114.5km、東上本線池袋~寄居間75kmに対して、野田線は62.7km。これは、関東の大手私鉄なら京急本線泉岳寺~浦賀間56.7kmを超え、京成本線京成上野~成田空港間63.9kmに匹敵する規模です。

 野田線の歴史は1911(明治44)年に野田町(現・野田市)~柏間に開業した「千葉県営鉄道」に始まります。野田と言えば醤油。そう、野田線は元々、野田の醤油を常磐線経由で輸送するために建設された路線だったのです。

 千葉県営鉄道は1923(大正12)年に京成電鉄系の北総鉄道(現在のものとは別)に払い下げられ、あわせて柏~船橋間が開業しました。その後、野田から粕壁(現・春日部)、大宮方面への延伸構想が具体化すると京成は経営から手を引き、「下総」と「武蔵」を結ぶ「総武鉄道」に改称します。

 総武鉄道は1944(昭和19)年に東武鉄道と合併し、東武鉄道の野田線となりました(柏~船橋間は1948年まで「船橋線」)。東上本線も元々は1920(大正9)年に東武鉄道と合併した東上鉄道の路線でしたが、こちらは東武系の資本で設立された会社であるのに対し、野田線は「外様」と言える存在でした。

 総武鉄道と合併した東武は野田線の近代化に着手します。まず1947(昭和22)年に柏~船橋間を電化し、続いて全線が単線だった路線を段階的に複線化しました。1950(昭和25)年に0%だった複線率は、1960(昭和35)年に約7%、1970(昭和45)年に約16%、1980(昭和55)年に約31%、1990(平成2)年に約43%と一定のペースで着実に進められました。

【写真】「リビング」をイメージした野田線新型電車を見る

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