スターリンも悩んだ! ソ連に飛来したアメリカの爆撃隊どう扱う? 秘密警察が考えた「稀代の大芝居」とは

1942年の今日は、日本本土が初めて爆撃された日です。アメリカ軍の爆撃隊は太平洋上の空母を発つと日本に爆弾を落としたのち、日本海を横断して大陸を目指しましたが、1機が侵入禁止だったソ連領内に着陸。その乗員たちのその後を見てみます。

乗員は不法入国者か 最高指導者すら悩ませることに

 4月18日の深夜、ヴォズドヴィデンカに秘密警察や国境警備などを統括するNKVD(エヌカーヴェーデー)の将校が駆けつけます。NKVDは乗員たちを不法入国者として拘束しようとしますが、基地のパイロットらは賓客扱いで歓待していたため、そこでひと悶着を起こしました。結局、モスクワからの命令により、乗員たちはソ連極東軍司令部のあったハバロフスクに送られます。

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8番機の乗員。前列左から機長エドワード・J・ヨーク大尉、副操縦士ロバート・G・エマンズ少尉、後列左から爆撃航法士ノラン・A・ハーンドン少尉、機関士セオドール・H・ラバン軍曹、銃手デビッド・W・ポール軍曹(画像:アメリカ空軍博物館)

 当時、ソ連の最高指導者であったスターリンはこの珍客に頭を悩ませます。同国はアメリカとは対ドイツ戦で同盟関係にあり、レンドリース法で物資の支援を受け始めたばかりでした。

 一方、日本とは日ソ中立条約を結んでいるため、日本を空襲した爆撃隊を解放すれば2国間の関係が悪化します。三角関係のジレンマです。結果、ソ連は機体を接収し、乗員を拘束してアメリカへ形式的に抗議しますが、その一方で関係者すべての利益にかなう解決策を見出すよう努力し、その間乗員は快適な条件で滞在できると非公式に保証しました。

 乗員たちは無聊(ぶりょう)の日々でした。シベリア全土からウラル山脈、ヴォルガ川のほとりまで、様々な都市や村をたらい回しにされ、生活に不便こそなかったものの、監視付きで自由というわけでもありませんでした。ストレスが溜まり続けたなか、ついにソ連軍将校まで巻き込んで脱走してしまいます。

 1943(昭和18)年5月、ロシア語を少し話せるようになっていた乗員たちは、親交を深めたアレクサンドル・ヤキメンコというソ連軍少佐とともに密輸業者を雇い、ソ連邦内でも比較的警備の緩いトルクメニスタン共和国からイランへ越境し、同国にあるイギリス領事館に逃げ込もうと企みます。なお、密輸業者を雇う250ドルは乗員たちの自己負担でした。

 脱走日は5月10日夜。彼らは密輸業者のトラックに乗り込み、闇夜に紛れて国境へ移動すると徒歩で鉄条網をくぐり抜けたのです。イラン側で別の密輸業者のトラックと落ち合うと、11日中にはイランのイギリス領事館へと到着。そして5月29日にアメリカ帰還も果たします。このとき、空母「ホーネット」を発進してから13か月が経過していました。

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