スターリンも悩んだ! ソ連に飛来したアメリカの爆撃隊どう扱う? 秘密警察が考えた「稀代の大芝居」とは
1942年の今日は、日本本土が初めて爆撃された日です。アメリカ軍の爆撃隊は太平洋上の空母を発つと日本に爆弾を落としたのち、日本海を横断して大陸を目指しましたが、1機が侵入禁止だったソ連領内に着陸。その乗員たちのその後を見てみます。
60年後、驚愕の事実が判明
乗員たちの執念と知恵による勇敢な脱出劇といいたいところですが、外国人との接触が厳しく制限されていたスターリン時代のソ連のハナシとしては、できすぎ感が否めません。8番機の銃手で最年少の20歳だったデビッド・W・ポール軍曹は、ソ連当局によって計画されたものではないかと、戦後すぐに違和感を話しています。

その違和感は当たっていました。2004(平成16)年になってロシアのウラジーミル・ボヤルスキー退役少将が、当時の様子を以下のように回想したのです。
「肝心な点は、アメリカ人自身がソ連脱出の準備をしたと、彼らに信じさせることだった」
「月明かりの下、アメリカ人たちは周りを見回してひざまずき、ロシア人が作った鉄条網の下を這ってくぐった。その様子は実に見ものだった。我々は違法な国境突破の『現実』を巧みにつくり出した」
このボヤルスキー退役少将こそ、前出の「ヤキメンコ少佐」当人でした。当時ボヤルスキーはNKVD防諜局に所属しており、スターリン直々に、ソ連・アメリカ・日本の三者の体面を保つため、アメリカ人が自ら逃げ出したようにしてイランへ送り出すというミッションを任されていたのです。
“舞台装置”は大がかりでした。脱出を手引きした密輸業者など、関わった人物すべてがNKVDの要員で、国境の鉄条網も検問所も、トルクメニスタン内にわざわざ作られた大道具の偽物だったのです。当時、枢軸国寄りだったイランには1941(昭和16)年8月にソ連とイギリスが侵攻し、イラン北部はソ連軍が占領・駐留していました。舞台を用意することなど造作もないことであり、アメリカ、イギリス情報機関もひと口、噛んでいた可能性があります。
「我々の脱走は本物だった。脱走には我々の有り金ぜんぶが必要だった。我々が彼(ヤキメンコ)と別れるとき、彼は我々一人ひとりに熱烈にキスをした。目に涙が浮かんでいた」と、8番機副操縦士のロバート・G・エマンズ少尉は先のデビッド・W・ポール軍曹の違和感をきっぱり否定しており、脱出は本物だったと信じて疑いませんでした。NKVDの演出した“舞台”は、ソ連が事件発生時アメリカに約束した「関係者すべての利益にかなう解決策」として成功だったようです。
Writer: 月刊PANZER編集部
1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
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