東海道線が「海を走っていた区間」って、いつ無くなったの? 鉄道誕生の地150年の大変貌を追う
2025年3月、東京都港区でTAKANAWA GATEWAY CITY(高輪ゲートウェイシティ)が、まちびらきを迎えました。この高輪は鉄道誕生の地です。海上の築堤を入っていた風景が高層ビルの街に変貌するまでの約150年の歩みをたどります。
高輪に「広大な土地」を確保できた背景
6年の歳月をかけて埋め立てが完了すると、品川・高輪一帯は鉄道運行の拠点となります。1914(大正3)年に東京駅が開業しますが、東京駅構内の操車場では対応が困難になったため、品川駅構内に機関庫や貨物ヤードを移設。ここから高輪・品川地区は鉄道の一大拠点に変貌していきます。
1930(昭和5)年に田町電車区、1942(昭和17)年に東京機関区、品川客車区が設置されるなど、鉄道網の拡大とともに拡張に次ぐ拡張が行われ、戦後は東海道新幹線の車両基地も建設されました。
しかし国鉄民営化に前後して、都心の大規模車両基地を有効活用すべきとの声が高まり、品川駅周辺から再開発が始まりました。国鉄が保有する価値のある用地は国鉄清算事業団が債務返済のために売却することになり、東口貨物ヤード跡地は「品川インターシティ」に、東海道新幹線東京第一車両所は「品川グランドコモンズ」に生まれ変わりました。
2000年代に入ると、再開発の波は高輪に押し寄せます。カギを握ったのは2015(平成27)年に開業した上野東京ラインです。東海道線と東北線(宇都宮線)、高崎線が直結されたことで車両基地を共有できるようになり、品川車両基地の規模縮小が可能になりました。
JR東日本が品川車両基地跡地に新駅を設置し大規模都市開発する構想を発表したのは2014(平成26)年6月ですが、上野東京ラインの整備計画を発表した2002(平成14)年時点ですでに「車両留置箇所の見直しによる車両基地用地の有効活用」が記されており、ふたつの構想は表裏一体で検討されてきたことが読み取れます。
JR東日本にとって幸運だったのは、民営化時に車両基地の縮小が想定されていなかったために車両基地がまるまる継承され、これを再開発できたことでしょう。しかし、その実現には鉄道機能の再編成、大規模設備投資など四半世紀以上の時間が必要でした。
企画展では高輪の変化だけでなく、路線、駅、車両など150年の鉄道史を取り上げています。高輪ゲートウェイシティ見物の際は訪れてみてはいかがでしょうか。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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