赤レンガ駅舎は「価値失われた」 廃墟同然に破壊された東京駅「取り壊し危機」からなぜ復原に至ったのか?
東京駅を象徴する赤レンガ造りの丸の内駅舎は、1945(昭和20)年5月25日夜の「山手大空襲」で1階まで炎に包まれ、骨格だけを残して廃墟同然となりました。その後、丸の内駅舎は取り壊しの危機を迎えますが、現在は3階まで復原され元の壮麗な姿に。どのような経緯があったのでしょうか。
「価値は失われた」赤レンガ駅舎、どうなる?
この頃、東京駅には大きな変化が生じていました。創建当時に設置されたのは西側の「丸の内口」のみでしたが、開業15年後の1929(昭和4)年、東側に「八重洲口」が新設。この八重洲口の利用比率は、1941(昭和16)年に1割でしたが、1949(昭和24)年には4割まで増え、今後さらに増加が見込まれました。
歴史ある丸の内駅舎を廃墟同然の姿から復元するのか、それとも、どうせゼロから始めるならば、工事の進めやすい八重洲側に駅舎を移設し、丸の内駅舎は簡素な通勤駅に作り変えるべきか、国有鉄道当局で大いに議論されたそうです。
とはいえ終戦直後で、八重洲口に近代的な駅舎を新築しようにも資金と資材のやり繰りは困難なのが現実。一方、関東大震災にも耐えた強固な鉄骨レンガ造り丸の内駅舎は、空襲の業火に焼き尽されてもなお健在でした。
そこで折衷案として、丸の内駅舎は火災被害が深刻な3階ホテル部分を取り壊して2階建てへ、シンボルだったドーム屋根は簡素な三角屋根へと、規模を縮小する形で復旧することになりました。外観の復旧は1年半後の1947(昭和22)年3月、駅構内を含めて全ての復旧工事が完了したのは1954(昭和29)年のことでした。
同年、八重洲口に新たな駅ビル「鉄道会館ビル」が竣工し、1950年代末にかけて新幹線計画が具体化したことで、新幹線ホームが設置される八重洲側へのシフトが明確になりました。
国鉄第一東京工事局が1967(昭和43)年に発行した『東工』77号には、丸の内駅舎は「時代の変化に伴い設備の陳腐化も目にあまるようになり、昭和30年頃より近代的な駅本屋に改築が論ぜられるようになった」として1950年代以降、建て替え議論が本格化したと記されています。
さらに「煉瓦造のあの建物を過去の良き時代の記念物として惜しむ向もあるが、戦災によりすでにその価値は失われた」と断じた上で、「しかし大規模であるために、また首都の表玄関であるために中々決断を下すことが出来ずに今日に至っているが、近い将来新しい駅本屋が出現することはまちがいない」とあり、当時の国鉄の考えがうかがえます。
建て替え論はその後も定期的に浮上しますが、1977(昭和53)年の高木文雄国鉄総裁と美濃部達吉都知事の対談で、丸の内駅舎の高層ビル化が議論されたことを契機に保存運動が動き出すと、国鉄民営化後に活発化しました。
そしてJR東日本は駅舎の保存方針を固め、高層化しないことで生じる駅舎上空の未使用空間(容積率)を、他事業者に販売する制度を活用して保存費用を確保。2002(平成14)年に復原へ向けた検討に着手したと発表しました。一つでも巡り合わせが悪ければ、震災と戦災を乗り越えた丸の内駅舎は現代に残らなかったかもしれません。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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