建造中に搭載機が1.5倍増!? 「違法建築っぽい空母」なぜ生まれた? 軍縮条約に翻弄された孤高の小型空母
ワシントン海軍軍縮条約で、空母建造が約8万トンまでに制限された旧日本海軍は、条約制限外である1万トン以下の空母を充実させようと、空母「龍驤」の建造を開始します。その後も、軍縮条約に翻弄された「龍驤」とはどのような空母だったのでしょうか。
艦隊の事故が相次ぎ、船体の改良を余儀なくされる
日本が新条約を許容したのは、諸外国からの空母による本土空襲を強く警戒しており、各国の空母の保有量を最小にしたいという思惑によるものでした。しかし、「龍驤」としては前提が覆ってしまったわけです。
新条約を受けて保有できる空母が限られることから、旧日本海軍は「龍驤」の能力増強を決定。1段格納庫を2段格納庫に変更し、搭載機数を24機から1.5倍の36機に増やすことにしました。この海軍の決定に対して、造船を担当する藤本大佐は完全に裏付けが取れていない設計理論により、艦載機を36機にする変更を実現。完成した「龍驤」は、船体規模に対して巨大な格納庫を持っており「違法建築」のようなアンバランスさを持っていました。
この結果、1933(昭和8)年の竣工時で「龍驤」の公試排水量は当初計画の9800トンから1万1733トンに増加。竣工直後の公試では、排水量の増加にもかかわらず29.5ノット(54.6km/h)の高速を記録しましたが、「転舵時の船体傾斜が大きすぎる」「耐波性に問題がある」など、様々な問題が指摘されました。しかし「運用の工夫で改善できる」として、この時点では特に改装は行われませんでした。
ところが、1934(昭和9)年に竣工したばかりの水雷艇「友鶴」が転覆した「友鶴事件」が起こり、武装を搭載しすぎた日本の軍艦には、深刻な復原性不良があることが発覚します。海軍は「龍驤」にも上部構造物の軽量化や、バルジの大型化といった対策を行いました。しかし、翌1935(昭和10)年にも台風で多くの艦艇が損傷する「第四艦隊事件」が起こり、「龍驤」は船体強度にも問題があると指摘され、艦首甲板を一段高めたり、艦橋部を改正したり、後部格納庫後面を閉鎖したりする対策がなされました。
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