「ジープの生みの親」≠クライスラーだから! “世界的名車の開発元”を襲った悲劇とは?
第2次世界大戦で活躍し、戦後は民間向けに販売されて人気となった「ジープ」。その誕生には、アメリカ軍と複数のメーカーによる紆余曲折がありました。歴史に残る傑作車を発明しながら悲劇に見舞われた元祖「ジープ」の開発メーカーを紹介します。
零細メーカーゆえに米陸軍から不遇な扱いを受けたバンタム
今日、「ジープ」を開発したアメリカン・バンタムの存在はほとんど知られていません。ステランティスN.Vの日本版公式HPにある「ジープの歴史」で、わずかにその名が見られる程度です。

それというのも、アメリカン・バンタムは自身が生み出した「ジープ」の生産権を取り上げられ、成功の果実を得られぬまま、1956年にアメリカン・ローリング・ミルズに買収されて、社名も残っていないからです。バンタムは従業員わずか15名の零細企業であり、工場も町工場に毛が生えた程度で、赤字経営であったことが原因でした。
試作車と増加試作車の「BRC-60」の高い性能に満足した米陸軍でしたが、量産を考えたときに不安を感じたのが、アメリカン・バンタムの企業体力でした。このような零細企業に米陸軍の主力となる小型軍用車の生産を任せることはできないと考えた米陸軍は、強権を発動してバンタムの設計を業界中堅のウィリスと大手のフォードに公開。次のプレ量産車を3社による競作としたのです。
この米陸軍の決定に基づき、ウィリスは「MB」、フォードは「GP」、バンタムは「BRC-40」という改良型を提出しました。審査の結果、ウィリスが僅差で正式採用を勝ち取り、フォードはウィリス「MB」のライセンス生産車である「GPW」の生産を行うように命じられます。そして、アメリカン・バンタムには、輸出向けに少量の「BRC-40」とジープ用のトレーラーの生産が許されただけでした。
偉大なクロスカントリー車を発明しながら、それにふさわしい対価も名声も得られなかったアメリカン・バンタムが辿った運命は悲劇としか言いようがありません。しかし、米陸軍による冷徹な判断があったからこそ、「ジープ」は大量生産されて連合軍勝利の一役を担うことができたとも言え、評価が難しいところです。
Writer: 山崎 龍(乗り物系ライター)
「自動車やクルマを中心にした乗り物系ライター。愛車は1967年型アルファロメオ1300GTジュニア、2010年型フィアット500PINK!、モト・グッツィV11スポーツ、ヤマハ・グランドマジェスティ250、スズキGN125H、ホンダ・スーパーカブ110「天気の子」。著書は「萌えだらけの車選び」「最強! 連合艦隊オールスターズ」「『世界の銃』完全読本」ほか」に
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