都営新宿線から来る列車はなぜ「橋本行き」ばかり? 京王“行き先縛り”の謎 半世紀前の計画の名残!?
都営新宿線から京王線へ直通する列車のほとんどは、京王八王子や高尾ではなく、京王相模原線の橋本へ向かいます。なぜでしょうか。
京王の複々線化は全部実現していないが……
大規模開発では交通機関の整備がいつも課題になります。計画人口約30万人(2020年時点で約22万人)の多摩ニュータウンは、4割が地区外への通勤通学者と想定されたため、大量輸送が可能な交通機関として2路線の鉄道整備が必要とされました。
京王と小田急は1950年代末から東京の南多摩地域での新線延伸と都市開発を構想していたこともあり、多摩ニュータウンの南北を挟むように走る両社が担当することになり、京王は1966(昭和41)年、小田急は1967(昭和42)年に免許が与えられました。
同じ頃、東京都心の地下鉄整備は新たな局面に入っていました。戦前から計画されていた1~5号線の完成目途が立ったものの、輸送力は依然として不足していたため、1962(昭和37)年の答申でさらに5路線が追加されました。
帝都高速度交通営団と都の分担を決める中で、都は多摩ニュータウン開発計画との関連から、新宿~馬喰町を通過する都営線が必要と主張。これを受けて1968(昭和43)年に京王線と直通する「地下鉄10号線」新宿~住吉町が策定されました。現在の都営新宿線です。
過密ダイヤに地下鉄直通列車を挿入するには線路容量を増やす必要があるため、地下鉄の整備計画には地下鉄本体の建設のみならず直通先の改良が含まれます。10号線では京王線の新宿~芦花公園、後に橋本まで対象となりました。
京王は1970(昭和45)年に新宿~調布間の複々線化を決定し、第1段階として翌年に新宿(新線新宿)~笹塚間地下トンネルの建設に着手します。結果的に複々線化が実現したのはこの区間のみでしたが、本来は相模原線、都営新宿線の建設と一体的に調布まで複々線化する計画だったのです。
1971(昭和46)年、多摩ニュータウンは鉄道の開業を待たずに最初の入居を迎えました。相模原線は1974(昭和49)年に京王多摩センターへ延伸。1978(昭和53)年に京王新線が開通し、1980(昭和55)年に都営新宿線が開業、京王との相互直通運転を開始しました。
京王としては本線系統も相模原線も重要な顧客であり、両方向に優等、普通、ライナーを本数のバランスを見ながら設定しています。一方、都営新宿線は都の事業である多摩ニュータウンと都心を結ぶという当初の役割に忠実であり続けたいというのが、相模原線と京王新線・都営新宿線の関係の答えといえるでしょう。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
実際と大きく違っていませんか?
「相模原線の上り列車は日中、毎時3本が都営新宿線直通の本八幡行き区間急行、3本が新宿行き各駅停車のパターンで、朝夕のラッシュ時間帯はこれに新宿行き特急が加わります。」
とありますが、
実際には、相模原線の日中は、
・本八幡行き 区間急行
・本八幡行き 快速
・京王線新宿行き 特急
これらが各3本ずつです(京王多摩センター基準)。