総武線はなぜ「へ」の字なのか? 却下された「幻の直線ルート」 線路曲げたらなぜか“OK”に!?
JR総武本線は、亀戸~船橋間で「へ」の字を書くように大きく北へ迂回しています。当初は、市川へ遠回りせずに直線で結ぶ構想でしたが、明治時代の世相が「渡りに舟」となり、現在の線形に落ち着きました。どのような経緯だったのでしょうか。
真っすぐルートは「不許可」 への字にしたら“あっさりOK!?”
総州鉄道が設立時に作った予定路線図「千葉県鉄道敷設意見書」では、銚子~佐倉~千葉~船橋~東京(両国橋)のルートが描かれ、今の総武本線のたたき台になっています。注目は、船橋~両国橋間を一直線でつないでおり、特に行徳(現・千葉県市川市)の隣の集落・河原(同)を経由地とする点です。
ところが、監督官庁の工部省鉄道局に提出した正式書類では、この部分が「へ」の字に変更されました。当時、物流の主役だった舟運(水運)の業界が、猛烈に反対したのが大きな原因のようです。
利根川や江戸川を使った舟運は、物産を江戸に運ぶ一大物輸送手段で、江戸時代以前から重要視されていました。
前出の河原の西隣には江戸川沿いの集落・行徳があり、「行徳(祭礼)河岸」という河港も備えた、舟運の一大拠点でした。
特にこの河岸と、新川(江戸川区)、小名木川(江東区)を経由し日本橋小網町(中央区。こちらも「行徳河岸」と呼ぶ)とを結ぶ舟は「行徳船」と呼ばれ、成田詣での観光客や、近郊野菜、醤油、行徳の塩田で造られる塩の輸送に大忙しでした。
既得権者の舟運業者たちは、仕事を陸蒸気(鉄道)に奪われると猛反対したのです。
一方、武総鉄道の予定ルートは、佐原~成田~佐倉~千葉~船橋~東京(本所・緑。両国と錦糸町の中間)で、佐倉~東京間は総州鉄道とほぼ一緒です。
注目はやはり船橋~東京間の経路でした。千葉駅を出発し、本八幡駅辺りまでは今の総武線とほぼ同じですが、この辺りから西に折れ、江戸川を渡って、千葉街道(国道14号)のさらに南側を通り、亀戸駅付近に至る計画でした。
2社は1887年にそれぞれ鉄道局に申請しますが、不許可となります。
理由の一つは、両社の路線の大半が重複し、共倒れの危険性が高いため。そしてもう一つは、やはり当時政府も舟運を物流の要(かなめ)として保護したからです。
実際この時は、利根川と江戸川を短絡する利根運河(千葉県流山市近辺)の開削工事が始まる直前でした(1890年完成)。政府肝煎りの一大計画である運河の完成で、舟運はさらに便利になる、と政府はアピールもしていました。
東京都心から千葉県への最短ルートは現在の東京メトロ東西線に近いものになるでしょう。このルートは道路が整備されたのも昭和になってからです。東京東部の軟弱地盤に明治時代の土木技術で鉄道を敷設できたのかという問題は無視できないと思います。もっとも現在の東海道本線も開業当初は用地確保できす海上を通る区間があったので何とも言えませんが。
まあ、なんにせよへの字にしといて良かったんじゃない。
昭和後期でも、結構、地盤沈下してた土地だからねえ。
あ、両国駅は、昔は、確か両国橋駅じゃなかったっけ?
いわゆる「鉄道忌避伝説」をあたかも事実であるかのように根拠も示さずに書く悪質な記事だと思います。
「当時、物流の主役だった舟運(水運)の業界が、猛烈に反対したのが大きな原因のようです。」と根拠も示さず憶測で書きながら、
その下には「既得権者の舟運業者たちは、仕事を陸蒸気(鉄道)に奪われると猛反対したのです。」と今度は断定的に書いています。
ここまで書くからには同時代の明確な根拠・文献があるはずですし明示して然るべきですが、なぜ示さないのでしょうか?
当然ながら、もし何も示せる根拠がないのであれば、実際に見たわけでもない明治時代の話を少なくとも断定的に結論付けて書くべきではありません。
他の部分では根拠となる文献や資料を示しながら、肝心な部分でそれが欠けているので、残念ながらストーリー的な結論ありきの悪質な記事だと判断せざるを得ません。
明確な根拠に基づかないにも関わらず、断定的な結論へとミスリードする記事は大きな誤解を招くので、今からでも訂正されるべきかと思います。