「そっちの路線は要らない」国に買ってもらえず12年で廃止された「電気鉄道」とは? 今も残る痕跡

長野県にはたった12年で廃止された池田鉄道という小さな鉄道路線がありました。戦前に廃止され、すでに90年近くが経過していますが、当時を偲ばせる数多くの遺構が残っています。どのような鉄道だったのでしょうか。

あだ名は「しじゅうから」 どんどん厳しくなった経営

 池田町ほか高瀬川右岸地域の期待を一身に受けて開業した池田鉄道でしたが、開業後の経営は決して楽ではなく、赤字が続きました。

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池田鉄道の起点だった大糸線の安曇追分駅。現在も池田鉄道開業と同年の1926(大正15)年築の駅舎が建っている(遠藤イヅル撮影)

 開業2年目の1927(昭和2)年から廃止2年前の1936(昭和11)年までのデータを見ると、年間旅客数は5万~8万人台で推移しています。一見、多そうに感じる数値ですが、1往復あたりの人数を計算すると7人台~11人台しか乗っていないことに。観光地も存在しない短い盲腸線で、かつ乗客のほとんどが沿線住民ゆえに、乗客の増加は見込めませんでした。

 池田鉄道の電車はいつもガラガラだったため、地元民からは「四十雀(シジュウカラ)=始終空(しじゅうから)」と呼ばれていたそうです。

 運賃は信濃追分~北池田間で18銭(当時の相場ではコーヒー1杯約10銭)でしたが、利用客が多い会染までは8銭、信濃池田までは15銭しか収入を運賃が得られないことになり、厳しい経営に拍車をかけました。

 さらに1927(昭和2)年に金融恐慌が発生し、沿線の製糸工場が大きな打撃を受けてしまいました。少なからぬ収入源だった生糸製品や地場の特産品、原材料の貨物輸送のみならず、従業員の通勤も減少して旅客輸送数もダウンしました。

 1929(昭和4)年には、追い打ちをかけるよう世界恐慌が起き、並走して走るバス路線も開業。10年間の期限で受けていた助成金も打ち切られてしまいました。

 そこで池田鉄道は催事、納涼電車の運転などを打ち出すとともに、1936(昭和11)年頃からは運行コスト削減のためガソリンカーを電車と併用して使用。続いて電車の運転もやめ、保有していた電車も信濃鉄道に売却しています。ところが不運は続き、1937(昭和12)年の日華事変でガソリン統制が始まり、ガソリンカーに転換したことが逆に経営を圧迫するようになりました。

 さらにこの年の6月、国が建設を進めていた「大糸線」(信濃大町-糸魚川)に組み込まれるため、信濃鉄道が国に買収されます。このとき、池田鉄道も一体のものとして買収されるはずだったところ、帝国議会で必要性が議論され、結局買収されませんでした。「会社の救済の意味の如きは全く(買収の)理由にならない」といった議事録が残っています。

 このような中での経営はままならず、池田鉄道はついに廃止を決定。1938(昭和13)年6月に全線で運行を中止して、廃線となりました。

【こんなに残ってるのか!】87年前廃止「池田鉄道」の遺構と「当時の電車」(写真)

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