「あいつらどこ行った!?」敵を恐怖に陥れた“幽霊師団”の真相とは? 指揮官は「名将ロンメル」

1940年6月、第二次世界大戦の序盤、戦禍に揺れるフランスにひとつのうわさが流れました。「ドイツ軍に幽霊のような師団がある」と。

味方からも位置把握が困難な「幽霊みたいな師団」

 その機動力を生かして突き進んでいくドイツ軍の各装甲師団ですが、スピードが想定以上にとびぬけていました。進軍速度が速すぎるため歩兵師団を大きく引き離し、早々にフランス国境に達してしまったのです。

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「アハト・アハト」こと8.8 cm FlaK (画像:パブリックドメイン)

 この状況で、第19装甲軍団を指揮するグデーリアンが、マース川を渡河後、停止して後続の師団を待つ命令を半ば無視し、フランス中心部に向け突進したことが有名ですが、実は、ロンメルに関しても同様に止まることをよしとせず、上官からの停止命令も無視し、ひたすらに前進しました。

 なお、ロンメルは当時グデーリアンのように複数の装甲師団を束ねる装甲軍団の司令官ではなく、あくまでいち師団の司令官です。彼の上司であるヘルマン・ホト上級大将が指揮する第15装甲軍団は、他部隊や歩兵との連携を考慮して慎重に進撃していましたが、ロンメル率いる第7師団だけが勝手に突出した形になりました。

 その進軍スピードは驚異的で、ときには上司が余計なことを言われないように通信を遮断していたため、味方ですら位置把握に困難を要す状態でした。その行動の速さや神出鬼没さが、幽霊や悪霊のように思えたということで、いつしか第7装甲師団は、「幽霊師団」と呼ばれるようになったのです。

「幽霊師団」は実際に敵陣の中心部を24時間で240km走破し、2日間砲撃を浴びせ続けて敵を降伏させたり、奇襲攻撃などもそのスピードをもって成功させました。

 なお、前述した通り第7師団は軽戦車が主体で、英仏の戦車部隊と対峙した場合はかなり火力不足でした。しかし、卓越した戦車指揮や重戦車相手には本来は対空砲である8.8cm砲を対戦車砲として用いる戦法を取っていました。この運用方法が有名になったのが、1940(昭和15)年5月21日、アラスで行われた戦車戦です。混乱するフランス軍のかわりに反撃の主体となったイギリス軍の「マチルダI」や「マチルダII」といった重装甲の歩兵戦車に対し、同師団は8.8cm砲を用いて撃破していくことになります。

 ちなみに、ロンメルの命令無視・独断専行傾向は北アフリカ戦線でドイツ・アフリカ軍団を指揮する立場になっても続きますが、その行動は電撃的な侵攻が評価される一方で、補給路の確保など戦略的視野の欠如なども指摘されています。

【かなり現場主義】これが、フランスで指揮をとるロンメル(写真)

Writer:

なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。

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