高性能すぎた戦略爆撃機B-29「アメリカ自身の脅威」まで生んじゃった… 敵の敵にまで波及した“歴史の皮肉”とは
アメリカが第2次世界大戦中に実用化したB-29は、高性能ゆえに戦後さまざまな形で後世まで影響を与えました。それはアメリカ国内にとどまらず、海を越えて冷戦中のライバル国にまで、さらにその隣国にまで伝播していきました。
巡り巡って中国にまで流れたB-29の技術
第2次世界大戦中、ソ連はアメリカに対してB-29の供与を求めていましたが、アメリカはB-29を戦略兵器とみなしていたため、この要求を拒否していました。そこで、ソ連は不時着したB-29に手を伸ばしました。

ソ連は不時着機の搭乗員はアメリカに帰国させましたが、機体は日ソ中立条約を建前に接収します。このうちの1機を完全にバラして、ボルト1個、ネジ1本からすべて、部品単位で完全コピーしたのです。こうしてソ連は、B-29と瓜ふたつの爆撃機を作り上げました。
ただ、ソ連としてはB-29を完全コピーすべく尽力したものの、いくつかの部分で妥協していました。まず大きな違いはエンジンです。組み合わせるターボチャージャーこそコピー品でしたが、エンジンは独自に開発したシュベツォフAsh-73空冷星形エンジンでした。
またB-29の特徴であった機内与圧の前後通路部分や、リモコン銃座の射撃管制装置などはコピーできなかったといわれています。さらにヤード・ポンド表記を無理やりメートル・グラム表記に換算し製作したためか、重量が1%(約0.5t)ほど増加。その結果、最高速度や航続距離などは明らかに原型のB-29よりも劣っていました。
それでもソ連は、曲がりなりにもB-29のコピーに成功、第2次世界大戦後の1947(昭和22)年5月19日に初飛行すると、Tu-4の名称で1949(昭和24)年から1952(昭和27)年までの間に847機生産し、自国初の戦略爆撃機として運用しています。
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