「騎兵って…どんなの?」花形の兵科の知識が260年間欠けていた日本 いるのは「馬の形をした猛獣」ばかり!? 試行錯誤の歴史とは
日本に近代的な騎兵用の馬が導入されたのは幕末だといわれています。江戸幕府はフランス陸軍を参考としていたため、軍事指導にあたっていたフランスからアラブ種の馬が寄贈されました。
日清戦争には不十分なまま突入! 日露戦争でも課題が残る!!
実は、1894(明治27)年7月から1895(明治28)年4月まで行われた日清戦争では、騎兵の整備が不十分なまま戦争に突入していました。独立した騎兵部隊として騎兵旅団が整備されたのは日清戦争直後のことであり、軍馬の管理を徹底し、優秀な血統は種牡馬として残し、軍馬として使用するせん馬とは明確に分ける「馬匹去勢法」が成立したのは、明治後期の1901(明治34)年でした。
しかし、その前年である1900(明治33)年に発生した義和団事件では、欧州各国の部隊と初めて共同作戦を行った際、日本軍歩兵の統率は高く評価された一方、騎兵については「小さい馬が多い」「隊列が乱れることがある」「馬の気性が荒く、輸送に時間がかかる」など、散々な評価を受けることになります。
そうした厳しい状況にもかかわらず、1904(明治37)年2月には日露戦争が勃発し、日本は当時、世界最高水準といわれたロシア帝国のコサック騎兵と戦わなければならなくなりました。
この戦争でコサック騎兵と互角以上の戦いを見せたのが、某小説でも有名な秋山好古少将が率いる騎兵第1旅団を主体とした秋山支隊です。ただし、機動力や突破力といった騎兵本来の能力においては、圧倒的にコサック騎兵のほうが優れていました。そこで秋山支隊は、騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させ、当時はまだ実戦での評価が定まっていなかった機関銃を効果的に運用することで、コサック騎兵を撃退しました。
日本海海戦と並び、陸上戦において日露戦争の勝敗に大きな影響を与えた「奉天会戦」では、第三軍の先鋒として行動し、機動力を活かしながら敵勢力を排除しつつ奉天市街の西側へ迂回することで、ロシア軍撤退の一因を作り出すことになります。
とはいえ、秋山支隊のように戦果を挙げた部隊ばかりではありませんでした。日露戦争中、日本陸軍では軍馬の貧弱さが露呈する報告が相次ぎ、ついには明治天皇自らが「馬匹改良のために一局を設けてはどうか」との勅諚を下すに至ります。
その結果、日露戦争中の1904(明治37)年4月7日に「臨時馬政調査委員会」が設立され、日本は戦後に向けて軍馬の改良を本格的に進めていくことになります。この時期から、乗馬用のアラブ種に加え、輓馬用のペルシュロン種などが海外から大量に輸入され、軍用のみならず農耕用の馬においても、日本の在来種は次第に数を減らしていきました。その結果、大正時代後期には、馬の体格も海外のものと大差ない水準にまで達することになります。





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