JR中央線の「特快」なぜ定着? 60年走り続ける特別な「快速線の快速」 誕生時に語られた三つの理由

JR中央線の「特別快速」は、対抗する私鉄の存在や郊外人口の増加を背景に誕生しました。他の国鉄・JR線ではなかなか定着しなかった特別快速ですが、なぜ中央線では今も多く走り続けているのでしょうか。

「特別快速」を設定した三つの理由

 JR中央線は、御茶ノ水~中野間の複々線化が完了した1933(昭和8)年、ラッシュ時間帯限定で日本初の「急行電車」の運転を開始しました。同区間で8駅を通過し、約8分短縮することで、沿線人口が急増していた中央線沿線から都心への通勤に対応しました。

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JR中央線の特別快速(画像:ニングル / PIXTA)

 なお国鉄は1961(昭和36)年に急行料金が必要な列車を「急行」、不要な列車を「快速」に統一したため、「急行電車」は「快速電車」に改称され、現在に至ります。

 そんな中央線快速電車ですが、目的地が東京だった頃は良かったものの、新宿の拠点性が高まると状況が変わってきます。1960年代後半に中野~三鷹間が複々線化されるも、平日は同区間を各駅停車としたため、同区間の通過駅は大久保と東中野だけ。つまり新宿以西の中央線快速は事実上の各駅停車なのです。

 そこで1967(昭和42)年に登場したのが、中野~立川間を三鷹のみの停車(国分寺は1993年から停車)として所要時間を10分短縮した「特別快速」でした。このタイミングで特別快速を設定した理由を、当時の国鉄の担当者は「武蔵野エリアの変化」「定期外需要開拓」「対京王線」の3点から説明しています。

 東京西部の市街化は、中央線に急行電車が走り始めた1930年代は中野~阿佐ケ谷付近、1940年代は荻窪~吉祥寺付近まで進んでいました。ところが高度成長で郊外人口が急増すると市街地は立川付近まで一気に拡大し、日野や豊田でも団地開発が始まりました。

 マイカーは普及途上で、郊外のショッピングモールもない時代、新興住宅地の住民は鉄道を利用して都心へ買い物、レジャーに出かけました。しかし立川から東京まで50分、16もの停車駅があっては出掛ける気も萎れてしまいます。

 そのような中、1966(昭和41)年度の国鉄は発足以来、初めて国電区間(大都市近郊区間)の定期外旅客が減少します。後から振り返ればオリンピック景気の反動不況の影響であり、利用はすぐに回復しますが、国鉄は大きな危機感を抱きました。ラッシュ時間帯の定期利用者だけでなく、買い物客を主体とする定期外利用者、量の輸送から質の輸送への転換が必要でした。

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