世界初の「寝台座席可変電車」583系 なぜ生まれ、消えていったのか(写真10枚)
583系の隆盛と終焉
1967(昭和42)年10月のダイヤ改正で581系がデビューしました。南福岡電車区に配置され、博多発の夜行特急「月光」として新大阪へ向かい、折り返して昼間の特急「みどり」として大分に到着。翌朝の「みどり」で新大阪へ向かうと、その夜に「月光」として新大阪を発車。翌朝、博多へ戻り、その日の夜に再び新大阪へ、というパターンでした。昼間の気動車特急「みどり」と、夜行の客車急行「海星」を電車化してスピードアップ。東海道新幹線との接続も考慮したため、東京~九州間の需要も取り込み、大成功となりました。
翌年、1968(昭和43)年10月から583系が東北本線に登場します。青森運転所に所属し、上野~青森間で昼行特急「はつかり」、折り返し夜行寝台特急「ゆうづる」として走りました。583系電車の「はつかり」は、キハ80系気動車時代に比べて所要時間を約2時間も短縮し、上野~青森間を8時間30分で走りました。これは、青函連絡船経由の上野~札幌間の時間短縮にもつながり好評でした。
関西と九州を結ぶ特急も583系化が進み、季節臨時列車を含めて夜行4往復、昼行3往復になりました。このときの国鉄の新製車両は575両。そのうち175両が583系でした。これ以降、毎年のように既存列車の583系への置き換えが進みました。座席と寝台の転換は車両基地で行われていましたが、西鹿児島(現・鹿児島中央)発京都行きの夜行寝台特急「きりしま」は終着が昼前になるため、走行中に座席転換が行われました。また、名古屋~博多間の夜行寝台特急「金星」の車両を名古屋~富山間の昼行特急「しらさぎ」に使うなど、583系の特長を活かした運用も行われます。
変化する時代、あまる在来線特急車両 583系は…
しかし、583系の増備は1972(昭和47)年が最後となりました。山陽新幹線の延伸によって関西~九州間の特急が減り、東北新幹線の開業によって「はつかり」の運行区間が短縮されました。オイルショックや国鉄の運賃値上げも影響し、在来線長距離列車の乗客が減っていきます。在来線特急車両があまり、ボックスシートが不評だった583系の昼行特急はリクライニングシートを装備した485系特急形電車に切り替わります。寝台列車も快適な客車2段寝台が導入されました。昼夜にわたって走り続けた583系は、大柄な車体も影響して、車輪や台車の傷みも激しかったようです。故障が続発したため、編成車両数も減っていきます。
晩年の583系は、大阪~新潟間の夜行急行「きたぐに」として残り、「シュプール号」などの臨時列車用として残されました。そのほかの大量の余剰車は普通列車用に改造され、九州、北陸、仙台地区で通勤や通学に利用されました。「きたぐに」は2013年に運行を終了。普通列車に改造された車両はその前年にすべて引退。JR東日本が臨時列車用に残した1編成6両も、2017年4月8日(土)の運行を最後に引退しました。1967(昭和42)年の登場から50年。583系の歴史は、長距離列車の実情を映す鏡だったといえそうです。
583系の実績は記念碑に値するが、715系に改造される昭和58年頃はむしろ失敗作という向きが多かった。59-2.60-3改正時車両の新製を極端に減らしたから715.419系で再起出来た。
そうでなければ50系客車のように早期に全廃された可能性も高い。
前世紀かつ前元号のころ、583系に乗るために「きたぐに」で立山黒部アルペンルートに行った。これが最初で最後の乗車。
夜行「立山」でしたね。
現行の「サンライズ出雲、瀬戸」も数年後には車両自体の老朽化がクローズアップされるでしょう、その時点で乗客数や収益面で採算ラインに合っていれば大規模リニューアルや新車導入されるかもしれんが、下手すればコスパの観点から廃止されかねない
秋田に行くとき、運賃と乗車時間を考えて夜行バスではなく急行津軽にした。
583系に乗りたかったのもある。
念のため指定席を予約したが、自由席も空いてるので1ボックスを占領し、勝手にベッドへw
車掌も判っていて、翌朝客が乗りはじめたら座席に戻すよう言われた。
山形の真室川で迎えた朝は忘れられない。
総じて気軽な旅行だった。
583系に乗った時の一番の思い出は、客室は2段目3段目が格納されたカバーや網棚で天井は高いけど幅が狭く、ちょっと圧迫感があったけれど、食堂車は座席車(グリーン車)にある網棚もなく、天井の幅も広くとても高くて開放感・ゆったり感がすごかったことです。あのゆったり感に浸りたくて、食堂車に足を運んだものです。
後年、「トワイライト」の食堂車が485系譲りだったので、583系だったらもっとよかったのにとちょっと残念に思ってもいました。
「寝台座席可変」で車両基地で停まってる時間を減らし、「電車」で折り返しの時間を減らした。つまり最大限走らせる為に造られた車両な訳で、重量を抜きにしても痛みの激しくなる運用をされたはず。更に改造して加減速を繰り返す普通列車で酷使。貧乏国鉄ここに極まれり?
「きたぐに」の様な夜行急行と昼行急行(夜行以前に絶滅)が設定できてれば、それが当初想定通りの最もふさわしい運用だったろうに。夜行に座席を混在できたし、特急としては座席の足元狭かったし。(広かったという人は、向かいに誰も座ってなかったのだろう)
「きたぐに」で思ったのは「走るカプセルホテル」。3段とも四角い箱空間ではなくて、下段では大きな窓に寄れば上半身起こせて、ちょっと違った意味で特別感はあった。
なるほど一理ありですね。
北陸本線で言えば「立山(昼行)」「ゆのくに」、鹿児島本線は「かいもん(昼行)」、日豊本線は「日南(昼行)」に宛てられていれば、今よりも格段に名車の誉れ高かったかも知れませんね。
そして国鉄が存続したか、別の形での継承企業体が営まれていたならば、もう少し早い段階で後継車輌が登場していたか・・・?
実は国鉄末期はJR以上に夜行列車の投資には消極的だったのでむしろ座席車化して消滅という考えもあったでしょう。14系15形が限定的な投入だった事、当初から個室B寝台を改造で行う(設計時は国鉄時代)点にその考え方が垣間見れます。
かっこいい車両だったけど。向かい合わせの席が特急らしく無かった。寝台は高くて乗れなかった。製造当初は目的に合っていたのでしょうが、その後は欠点が目立っていたのですね。
パンタ下にだけ唯一あった2段は、1段分の天井が高く、あの解放感が忘れられません。
3段の下段では、大窓を占領して、夜の流れゆく景色を眺めたものです。(駅に停まるとホームから丸見えでしたが・・・)
懐かしいなぁ・・・
「北斗星」が満席のため1990年代に「はくつる」として青森→上野を利用しましたが、上段寝台は狭苦しかったです。
おまけにスピード出ると揺れは激しい、両側がカーテンなので圧迫感があったりで、正直良い感想はなかったです。
やはり寝台特急は絶対ニーズはあるので、週末1往復で良いから上野~札幌間に新世代車両でサンライズエクスプレスを新設して欲しいものです。
581系、博物館で見たい...