空母「鳳翔」の一部始終 旧日本海軍空母の祖はなぜ「保母さん」と評された?

戦火を生き抜き最後の奉公

 1945(昭和20)年に入ると、燃料の不足から、「鳳翔」は呉周辺での停泊留置が多くなりました。このころになると、周辺では軍港を狙った空襲も多くなり、呉も3月には大空襲を受けることになりますが、「鳳翔」は、運よく損傷を免れました。

 最終的には、空襲で大破したほかの艦艇から、25mm機関銃(旧日本海軍では、口径40mm未満は機銃に分類)などを取りはずし「鳳翔」に装備、防空砲台として活用され、そのまま終戦を迎えることになりました。このとき航行可能だった空母は、「鳳翔」「龍鳳」「葛城」の3隻のみだったといいます。

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1945年10月13日、呉で米海軍が撮影した鳳翔。飛行甲板が前後共に艦体最大限まで延ばされているのがわかる(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。

 こうして、運よく大戦を生き抜いた幸運艦には、戦後も活躍の場が用意されました。飛行甲板の前部を撤去したうえで、復員輸送艦として運用され、約1年間で日本と南方の島を9往復し、約4万人の日本兵と民間人を祖国まで運んだのです。そして1946(昭和21)年8月にその任務を終えると解体され、その長い生涯を閉じたのでした。

「世界最初の新造空母」として竣工し、新たな時代の最先端となりながらも、太平洋戦争での活躍はごくわずか。しかし、そのために大戦を生き延び、戦後まで活躍することができたという数奇な運命をたどった「鳳翔」。

 この縁起のよい艦名を、21世紀になったいま、受け継ぐ護衛艦は登場するのでしょうか。そしてやはり、もし仮にその名を受け継いだ艦が登場した場合、どのような姿なのか。想像し出すと興味が尽きることはありません。

【了】

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コメント

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2件のコメント

  1. 我々日本国民にも空母を保有する権利がある。
    領海の小さい中国が複数の空母を保持する以上、その半分は最低限保持する権利がある。
    ふたたび、竹やりで火炎放射器や機関銃と戦えなどという政治家の存在を許してはいけない。
    竹やりへいだけなら、敵にとっては好都合で、戦争をふっかけやすくなるのは自明である。
    日本国憲法も、国民も、竹やりではまもれない。

  2. 保母さんなんて呼ばれたことはありません。