空母「鳳翔」の一部始終 旧日本海軍空母の祖はなぜ「保母さん」と評された?
そして「保母さん」へ
そして日本は、戦争の時代へと突入していきます。空母「鳳翔」は1932(昭和7)年の「第一次上海事変」と1937(昭和12)年の「支那事変」に参加。1941(昭和16)年12月の「太平洋戦争」開戦時には、日本は「鳳翔」を含め、改造、新造あわせて9隻もの空母を保有するまでに至っていました。
「鳳翔」も、いったんは空母「瑞鳳」や駆逐艦「三日月」「夕風」と共に第三航空戦隊を編成していましたが、大きな海戦に参加することもなく、翌1942(昭和17)年4月の戦時編成改訂にともない、第三航空戦隊は解隊されました。
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同年6月に、「鳳翔」は「ミッドウェー海戦」などにも参加しますが、ほかの大型空母と比べれば、その形も装備もやはり「一世代前」の空母です。実戦で活躍することは難しく、やがて空母搭乗員の着艦訓練用として、あるいは潜水艦の標的艦として運用されるようになっていきました。
そして1944(昭和19)年には、航空機の大型化に対応するため甲板を延伸、180m以上にまで伸ばした結果、外洋での航行が難しくなり、瀬戸内海から出ることができなくなってしまいました。
こうして、訓練艦として瀬戸内海から出ることもなくなった「鳳翔」の様子を、当時の艦長は「保母さんのようだった」と回想しています。
我々日本国民にも空母を保有する権利がある。
領海の小さい中国が複数の空母を保持する以上、その半分は最低限保持する権利がある。
ふたたび、竹やりで火炎放射器や機関銃と戦えなどという政治家の存在を許してはいけない。
竹やりへいだけなら、敵にとっては好都合で、戦争をふっかけやすくなるのは自明である。
日本国憲法も、国民も、竹やりではまもれない。
保母さんなんて呼ばれたことはありません。