戦艦「大和」の一部始終 旧海軍「艦隊決戦の切札」 最強秘密兵器が東シナ海に沈むまで
21世紀のいまなお「史上最大の戦艦」の座に君臨する戦艦「大和」は、旧日本海軍の威容と落日を象徴する艦でもあります。なぜ建造され、いかに戦い、沈んだのでしょうか。最期を迎えた1945年4月7日に至るまでを振り返ります。
「大和」東シナ海に沈む
1945(昭和20)年4月7日は、旧日本海軍の戦艦「大和」が沈んだ日です。
そのおよそ1週間前の1945(昭和20)年4月1日に、アメリカ軍は沖縄本島へ上陸を開始、太平洋戦争の最終盤である熾烈な沖縄戦の幕が上がりました。これに対し日本は特別攻撃、いわゆる「特攻」を中心に対抗、その中には史上最大最強と形容された戦艦「大和」も含まれていました。しかし「大和」は沖縄に到達することなく、東シナ海の「北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒」地点に没しました。死者は2740名、生存者は269名(戦闘詳報より)、単独でここまで犠牲を出した軍艦は、ほかにはないでしょう。史上最大とうたわれた戦艦「大和」ですが、就役から戦没までわずか5年弱と、短命に終わってしまったのでした。
戦艦「大和」が建造されるに至ったきっかけは、大正時代にさかのぼります。
軍人・民間人合わせ世界中で約1500万人以上の死者を出した第1次世界大戦は、1918(大正7)年に終わり、イギリス、フランスを中心とした連合国側がかろうじて勝利しました。しかし、それは新たな対立の始まりでしかなく、戦後、戦勝国となった国々は再び軍備拡張を始めようとしていたのです。
特に国土が直接、戦渦に巻き込まれることのなかった日本とアメリカは海軍力の増強が著しく、国家予算の1/3から1/2も費やすものでした。こうした行き過ぎた軍拡を抑制するため、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの海軍5大国は、世界初の軍縮条約である「ワシントン海軍軍縮条約」を結ぶことにしました。
1922(大正11)年2月に結ばれたこの条約で、日本はかろうじて当時、最新鋭であった長門型戦艦2番艦の「陸奥」の保有が認められましたが、この後、条約締結から15年間は新たな戦艦が造られることはなくなりました。
しかし、アメリカを仮想敵としていた日本海軍は、その間も楽観視していませんでした。なぜなら、保有する長門型戦艦2隻以外は、軒並み攻撃力も速力も一段低い旧式戦艦だったからです。
そこで1930年代に入ると、海軍では条約失効後すぐに新型戦艦の建造にかかれるよう、研究が活発化します。こうして1937(昭和12)年11月4日、海軍期待の新型戦艦(大和型)が広島県呉市の呉海軍工廠で起工しました。
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