戦艦「大和」の一部始終 旧海軍「艦隊決戦の切札」 最強秘密兵器が東シナ海に沈むまで
沖縄への捨て身の特攻
1943(昭和18)年2月に入ると、連合艦隊の旗艦は大和型2番艦の「武蔵」に変更され、レーダーや対空機銃の増設の合間に、陸軍将兵を輸送するなどの任務に従事しました
ようやく1944(昭和19)年6月、アメリカ軍のサイパン島上陸にともなう「マリアナ沖海戦」に参加しますが、同軍機に向けて対空弾を撃つだけで終わりました。
半年後の10月には、アメリカ軍はフィリピンに対して進攻を開始、これを撃滅するために日本海軍は残存艦艇の大半を投入します。「レイテ沖海戦」と呼ばれる一連の海上戦で、「大和」はアメリカ海軍の護衛空母や駆逐艦に対して砲撃を実施しますが、艦隊指揮官である栗田中将の命令で撤退、遂にアメリカ戦艦と戦うことはありませんでした。
「大和」はブルネイを経由して呉に戻ることができましたが、「レイテ沖海戦」では2番艦の「武蔵」が沈没し、さらにその1か月後の11月29日には空母に改装されていた3番艦の「信濃」も沈没しているため、同型艦は「大和」のみが残されることになります。
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そしてついに、「大和」は最期の時を迎えることとなりました。冒頭に触れたように、1945(昭和20)年3月下旬から4月にかけ、米軍は沖縄に襲来し、凄惨な沖縄戦が始まります。日本陸海軍はこれを阻止するために、共同で大規模な航空特攻作戦を4月5日より行うことにしましたが、その一環として水上艦艇にも特攻させることになり、それで白羽の矢が立ったのが「大和」だったのです。航空戦力の護衛もないまま、アメリカ軍が上陸開始した沖縄へ突入、艦を座礁させ砲台化するというものでした。
「大和」を中心に軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」以下、駆逐艦8隻の計10隻からなる日本海軍第一遊撃部隊は、4月6日15時20分に山口県徳山沖から出港、豊後水道を抜け、九州南方の大隅海峡を目指します。ただし、出港直後からアメリカ海軍は潜水艦で追跡を開始しており、同海軍の空母艦載機が来襲するのは時間の問題でした。
第一遊撃部隊はいったん、進路を真西の東シナ海方面にとり、しばらく西進した後、一直線に南下して沖縄に向かう予定でしたが、鹿児島県薩摩半島沖を航行中の4月7日午前8時15分、アメリカ軍機に発見されると、昼12時半過ぎから猛攻を受け、1時間後の13時20分、薩摩半島坊ノ岬沖約200kmの地点で、「大和」は力尽き没したのです。
【了】
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